interview

オハッド・ナハリン インタビュー + GAGA体験レポート

2010年05月15日

協力:京都芸術センター
GAGA japan


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世界的に人気の高いバッドシェバ舞踊団で用いられているメソッド、GAGAのワークショップが、4月10日、11日に京都芸術センターで催された。『MAX』の公演に際し来日し、日本では今回初めて直々にGAGAの講師をつとめた考案者のナハリン氏のインタビューを、「GAGAピープル」、「GAGAダンサー」の体験レポートとともにお届けします。

ワークショップ情報
日時: 2010年4月10日(土) 10:30~12:00 GAGAピープル
   2010年4月11日(日) 10:30~12:00 GAGAダンサー
会場:京都芸術センター・講堂


+ GAGAのワークショップを、特に一般の方と始められた経緯を教えていただけますか?

ナハリン:GAGAのトレーニングでダンサーがすることと一般の人がすることは、多くの点で似通っています。ですがGAGAは舞台に立つこととではなく、私たちの体に備わる世界との関係を扱います。
 10年前に、ダンサーではない人々の小さなグループで実験を始めたのですが、彼らはダンスで何かをやろうといった野心は微塵もない、私の友人やオフィスや衣裳部で働く人、照明、音響スタッフなどでした。週に2度彼らと会って30分程度のワークショップをやり出したわけですが、それは私にとって最も学ぶところの多い経験となりました。というのも動きの癖や、喜びと努力の結びつきを発見できたからです。私たちは自分の体において、退化した部位や、想像力と生きる力の結びつき、美徳や長所に光が照らされることを発見してゆきました。動きが治癒的に作用することも。それらは私が編み出したものではありません。発見が肝心なのです。GAGAは発明ではなく数々の発見と関わることがらなんです。
 そうして、私自身と参加した人々双方にとっての成果が見られました。彼らは繊細さ、自由さ、安定感、幸福感を増し、より肉体的になっていきました。GAGAが扱っているのは、人生の問題を解決することではなく、問題により容易に対処できる能力です。車などの機器のように、エンジンが増強され、持ち上げねばならない重さを軽減する。昨日訪れた伏見稲荷に「重軽石」というのがあって面白かったのですが、持ち上げる前に考えますよね。で、持ち上げてみて思ったより軽ければ先は明るい。もし重ければ…いや逆だったかな? ともかく、岩そのものは変わりませんが、それを持ち上げる能力は変わるということです。GAGAはこの持ち上げる能力を生み出すことに関わっています。「エンジンを強化する」ということです。もちろん「エンジン」は単なる機械ではありません。魂であり、想像力であり、周りで起こっている事柄に気づく力です。
 人は自分がどれだけ繊細な感覚や感受力、注意力を持ち得るのか気づかず、旅したり浮遊するといった考えにもさほど注意を払っていません。最終的にはそういったことが狙いです。動いたりしなくとも、GAGAは思考のプロセス、癒しのプロセスや論理に資する目的に役立つものとなり得る。演じよう、舞台に立というといった考えやその手の野心ではなく、私たちの生に関わる意義深い事柄についての見方や考え方を与えたり得たりする役に立ちます。ある意味、それは捨てること、壊すこと、止めることと関係してもいる。舞台に立つ野心やなんかをね。ダンサーであってもこの野心を捨てなければならない。そういったことすべてを、私はこのWSで見いだしました。6年前になるかな、友達との限定されたグループで2、3年やった後に、その実践を参加希望者に開くことにしたんです。

+ 京都と他の都市では違いは見られましたか? あるいは日本でWSをして気づかれたことは?

ナハリン:実際のところ、私は違いより類似を感じます。違いについて考えるのはあまり好きではないんです。違いが集団性と結びついているとは思わないからです。今日は50人ほどの参加者がいましたが、みな個々で違っています。京都から来た人ばかりでもないでしょう。すでに違いを備えた人が集まっている。名古屋の150人もまた違い、埼玉の100人もそうです。ここで埼玉と共通する人もいるし、全然違っている人もいる。全体のエネルギーということでなら、私は何がしかを言えるかも知れませんが、それはさほど重要なことではありません。個人差は集団の違いより強いですからね。違いはそこにあります。
 私がGAGAで特に意識しているのは、同一性とは違った類似性について語ることです。それは違っていて、似ている。GAGAは共有知を分かち合うことと関係しています。それは私たちの意見の不一致ではなく、一致と結びついている。そして意見が一致するなら、それは至るところで共有され得るものとなります。だからこそ、イスラエル人であり、異なる背景、異なる文化に根ざす私が、ここに来てあなたがたと何かを共有することが可能なのであり、それに同意してつながることができる。そしてあなたがたは私が理解するのを助けてくれもする。あなたがたと共に発見したことから私は学んでいます。だから単に私がGAGAを持ってくるだけではなく、実践によってあなたがたと共に発見しているんです。

+ あなたがホームとするコミュニティーや劇場、あるいは国では、ダンスはどのような社会的役割を果たしていると考えますか?

ナハリン:ダンスは役割など持っていませんよ。人々に作用する力は持っていても、それは役割ではない。私個人のこととして答えるなら、もし踊っていなければ、私はとても不幸せだろうというのが答えです。でも全く踊らない人たちだっている。私はそういった大局に立ってダンスについて考えることはしません。GAGAをなるべく多くの人々に伝えることを、使命としてはいますが。
 でも実際のところ、結果的に何が変わり得るのでしょう。世の中の物事を変えることができるのはダンスではありません。ダンスはその役に立つかも知れません。でも世界を変える可能性は、論理、倫理、共感、弱者に権利を与えること、そういった人間の価値や良心に関することにあります。極悪人だってGAGAをすることはできる。でも改心することなどないかも知れないし、より極悪になりさえするかも知れない。GAGAが彼らの残酷性を増すのに役立ちさえするかも、といったことはわからないのです。ダンスの役割などわかりません。
 でも私個人にとって、また多くの人にとって、ダンスはわたしたちを幸せにしてくれる。GAGAを世界に伝えてゆくことは私の使命です。

+ イスラエルの人々はダンスが好きで、国でも教育に積極的に取り組んでいると聞いていますが。

ナハリン:ダンスの種類によりけりです。踊ることは現実にはとても保守的でもあり得る。そしていかに踊るかは教師に左右される。教師は創造性を破壊し想像力を塞き止めることだってあるんです。そういったものをまだダンスと呼ぶことはできますが、ダンスは人々をより保守的に閉鎖的にさえできるんです。行われていることにダンスという名を冠するだけでは不十分で、どんなダンスをするかが問われる。ダンス教育には大きな問題があります。保守的なままですからね。5、6才の子供たちが、スタジオで鏡とともにダンスをしているのをご覧なさい。有害に作用するのが常ですよ。自分の姿を見て、想像すること、感じることを止めろと教えるのです。ダンスだからとて良いものとは限らないのです。イスラエルにダンスをする人がたくさんいるのは事実ですが、日本だってそうではないですか。たくさんの子供たちがバレエを習いに行っているでしょう。でもそれは本当の意味でダンスではない。魂や想像力を養うようなダンスではないのです。

+ 作品には観客を関わらせる様々な工夫を感じます。観客と何を分かち合いたいと思われますか。

ナハリン:上演観賞は多層的な経験です。私が展開したいこと…あるいは観客に期待するのは、私が組み立てるのと同じように作品を見てくれることです。全体の感覚を失うことなく細部まで。いかに細心の注意を払っているか、どんな風に誇張しているか…多様な色彩や構成に共感して欲しいと思います。私の物語を理解する必要はありません。もし理解されたなら、私が語ろうとしているのは構成についてであり、有機的な組み立て、ヴォリューム、強調したり控えたりのさじ加減、感触、色彩といったものについてであることに気づかれるでしょう。

+ 作品『アナフェイズ』でもそうでしょうか。

ナハリン:『アナフェイズ』でもそうです。ある意味、挑戦的なところのある作品ではありますが。作品は後からたくさん語られ、より挑戦的になり、実際のところより豊かになります。要素はたくさんありませんでしたがその内部は、より切り詰められた要素であっても、より広い幅を持ちます。その幅は、私のダンサーがそれを解釈して演じる力とも関係しています。
 観客にはこの能力にも共感していただきたい。ダンサーのこの能力、彼らがいかに感性が細やかで鋭く、その能力を惜しみなく解放するかを認識して欲しいと思います。これらを生み出すすべてとその経験は、想像力や多くのことを認識する能力と結びつきを持っています。
 観衆はしばしば、何かに焦点を当てるときに間違いを犯します。舞台は全体として存在しているのに、彼らは一つのことに焦点をあて、多くを見失う。全てを捕まえることなど不可能ですが、私は観客をそのような焦点から解放したいとよく思います。まるで風景を眺めているように。それは自ずと私たちに現れる。舞台というものは、焦点から解放されたなら、より多くの情報を与える可能性を秘めた一つの風景(ランドスケープ)であり得るということを、観客に気づいてほしいと思います。

+ わかります。私もダンスを見始めた頃は特定のフォーカスで見ていました。でも十数年たって一つだけ確信しているのは、知覚やそれを組織している脳は変わりうるということです。

ナハリン:それがGAGAの考えですよ。脳が変わりうるということがね。変わるのは身体だけではないのです。

(4月10日@京都芸術センター)






オハッド・ナハリンの「GAGAピープル」レポート

古後奈緒子

 「GAGAピープル」の当日、京都芸術センターの講堂には、20代〜30代くらいの女性を中心に老若男女50余名が集まった。現れたナハリンは、めざとく「ダンサーも結構いるね」と認めてから、GAGAピープルがGAGAダンサーと共通のベースに基づいていることなどにさらりと触れ、真ん中に入ってナビゲーションを始めた。

 そもそもGAGAってどんなメソッドなの? 一体何をするの? まずはそういったところから知りたい方は、GAGA Japanのサイト、および亀田恵子氏による懇切丁寧な体験レポート(『あれやって、これやって…あ、踊ってる!』log-osaka dance+ 2008年9月号掲載)をご覧いただきたい。これらにあんまり付け加えることはないなあ…とは思うのだけれど、印象的だった時間の流れを切り口に、GAGAピープル初体験を振返ってみたい。

 ダンス=非日常の体験という考えに沿うなら、GAGAピープルは、規範的な身体云々…といった目的地をめざす旅ではなく、ホームである日常の体に近いところで行う散歩に似ていると思う。これは上演というエンドのあるダンスのレッスンと区別される、プロセス志向のワークショップの多くに共通するところ。実際、言葉で与えられるイメージを受けとめて、それぞれができる範囲で即興で動くよう促された今回も、肉体改造といった意識や、常態とする身体秩序を出るといった感触すらなかった。だからフィジカルな「できない」ともほぼ無縁。「年齢や身体能力の差を問わず誰もが実践できる」と体験者が口をそろえるのもうなづける。

 ではそうして導かれる“ダンス”とは? 行き着く境地やその途上で手にする気づきは、それぞれの出発点により違ったものとなるのだろう。私にとって、まずは動きと滅多に結びつけることのないイメージが、あまり意識しない身体の部位や感覚への方向づけとともに、少なくともふだんの体のあり方を離れてみるきっかけとなったように思われる。例えばのっけから「手の内側に(エネルギーの)ボールを感じながら」と言われて、一瞬「どう?」と思いはしても、とりあえず動く。そうしてナハリンの動きに触発されたりしつつゆらゆらするうち、自分なりの「こんな感じ」が見つかることもあり、見つからなくても次の指示が来るまであーだこーだし続ける。そう、GAGAではワークの間に止まらないのだ。

 実は今回最もエキサイティングだったのは、この「ノンストップ」によって生み出される、感覚の堆積と移行が織りなす時間の体験だ。例えば先の「ボール」のイメージを手先から肘、肩、トルソなんかへ移動させてゆく。またある時は「お肉」と「骨」と「皮膚」がくっついたり離れたりする。その間、前のタスクやそこで得た感覚をできるだけ保つようにと折りにふれ注意されるのだが、マルチタスクもさながら感覚を重ねてゆくのが結構難しい。「これ以上無理〜」となったあたりで別のイメージに移行するのだが、その間も「浮いてflow〜」と声がかかり、ほっと息つくいとまもない。これまで経験したワークショップでは、ワークとワークの間は束の間でも運動がオフになり、その隙に「できた/できない」、「次は?」といった思考のスイッチが入るところ。なのでこのflowも、最初は「何なんこれ?」と思いながらただゆらゆらしていたのだが、繰り返すうちにあることに気がついた。前のワークの余韻が残り、感覚がリセットされないまま次へゆくのだ。その様はまるで、盛り上がっては凪を繰り返す感覚の波がいくつも体を通過してゆくかのよう…と言ったら全体の感じをわかっていただけるだろうか。

 こんなふうに振返ってみると、再三の「目をつぶらないで」という注意も、溺れかけてる人への声かけだったのかと合点がゆく。逆に見ることに執着する傾向のある私は、常に波頭から首を出していようとして、余計な努力をしていたのかも知れない。2度ほど、交錯する動きと感覚を保った上で視界が開けてきて、大変だった分その感興も格別だったが、それがGAGAの謳う「踊る喜び」なのかはノンダンサーには確かめようもない。ただ、フィールドスポーツに興じていた頃の視覚や、マルチタスクの職場でようよう全体が見渡せるようになった時の感触にも似たこの体験を、ホームとしての身体から新たな道を、こんなやり方で開き得るという手応えとともに、覚えておきたいなと思う。

古後奈緒子(こご・なおこ)
dance+編集。舞踊史研究・批評。稼業は語学にまつわるなんでもかんでも。





オハッド・ナハリンの「GAGAダンサー」つぶやきレポート

伴戸千雅子


 参加者は定員を超える50名ほどと聞いた。始まる前に簡単な紹介があって、「始まったらノンストップです」という言葉と共に、講師のオハッド・ナハリンが参加者の真ん中に立って、動き始めた。

 「身体のいろんなところでカーブを描く」「やわらかく」が初めの指示。その流れをきらずに次の指示が出されていく。「片足を上げる」。さらに「プリエ」や骨盤を開閉する「イン」「アウト」、足を前後左右にスウィングするバレエ的な動き。これも初めの「やわらかく」「カーブを描く」ような身体の延長上に重ねられていく。「やわらかさ」に捉えられ小さくなった動きに対して、「努力するところを探して」と声がかかる。

 オハッド・ナハリンは流れるようにやわらかなリズムで、ワークを進めていくが、伝わっていないと感じると細かに修正をしていく。動きを止めて指示を出す際、参加者たちが話に集中して身体の感覚を途切らさないように、まず「浮いて」という。ドンと身体全体を落とさないように、それまで耕してきた身体を意識させる。

 「やわらかさ」に重ねて、スピードや大きさを求めるような動き、動きを生み出す中心への意識などが足されつつ、ワーク終盤は身体全体を使った動きになっていった。最後はその日やったことを味わいつつ、2分間参加者それぞれが動いて終わった。全体で1時間以上はあった。

 講師の英語を通訳していたのは、鞍掛綾子さん。GAGAの講師で、大阪で定期的にクラスを開いておられる。

私が印象的だったのが、「骨が肉の中に浮いている感じ」「骨が肉をおす」「肉が骨を包む」などの身体についての言葉。聞いた瞬間身体がイメージできず戸惑った。講師の動きを見つつ、こういう感じだろうと自分の身体言語に変換させながらやっていた。芸術センターで以前行われたGAGAに参加していた友人に聞くと、彼女はワークショップ中に出てくる「ジューシーな」という言葉がピンとこなくて、でも、その感じをぜひ味わいたいと思ったそうである。

 ワークを受けながら、西洋人ダンサーの持つ筋肉的やわらかさと力強さみたいな質感が浮かんできた。大きなホールで踊る、ブルブルッと動くほどにエネルギーが満ちてくるような身体である。それに対して、私の身体は線が細い。消えていこう、はずれていこうとする身体で、少し間違うと小さくなっていく。そういうズレを感じた。同じノンストップでも気功教室では身体が大きくみえてくるんだけどな。不思議なもんだ。


伴戸千雅子(ばんど・ちかこ)
ダンスグループ花嵐のメンバー。ダンサー・振付家。一児の母として子育てにアタフタしつつ、子連れ参加のワークショップ「なんちゃってアフリカン」(京都)、「カラダとココロのストレッチ」(高槻)をやっている。連載中「母ちゃんと赤ちゃんのカラダ学」バックナンバーはこちら

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