2013年05月17日

「空間と身体の呼応」をコンセプトに作品を創作しているボヴェ太郎。近年では、能楽や朗読との共演作品を手がけるなど、言葉や音楽によって生起される空間に着目した創作に注目が集まっています。2007年より、アイホールとの共同製作“Take a chance project”において、三作の新作を発表。その三作品を音響家として伴走してきた、加藤陽一郎との新作についてのダイアローグです。

聴き手・構成:小倉由佳子(アイホール・ディレクター)

公演情報
アイホールダンスコレクションvol.70
ボヴェ太郎 舞踊公演 『響』 J.S.Bach Messe h-moll 
日時:2013年6月8(土)16:00開演 
構成・振付・出演:ボヴェ太郎
音楽:J.S.バッハ『ミサ曲ロ短調』より(録音音源)
会場: アイホール(兵庫県伊丹市)
ウェブサイト
ボヴェ太郎(舞踊家)×加藤陽一郎(舞台音響家)

小倉 今回の作品についてお伺いする前に、ボヴェさんが普段どのようなスタンスで創作をされているのか、お聞かせ頂けますか。

ボヴェ 私は、空間と身体の呼応をコンセプトに、創作を行っています。庭園や歴史的建造物などで公演を行う場合は、空間が内包している魅力を、舞との関わりの中から、どのように引き出す事が出来るか、という視点から構想してゆくのですが、今回のように劇場公演の場合は、始めにモチーフとなる音楽や文学作品などを選び、その作品から生起される空間との関わりから舞をつむいでゆく、というアプローチを心がけています。身体を中心に作品を作ってゆくのではなく、まず“場”を整えて、そこに身体をなじませながら舞いの訪れを待つ、と言いますか。観客の皆さまの呼吸もふくめた、一期一会の出会いから、空間が豊かに息づく“場”をしつらえることが出来たら良いなと考えながら、舞台に向き合っています。

photo: Toshihiro SHIMIZU
photo: Toshihiro SHIMIZU

小倉 ボヴェさんには、アイホールでこれまでにTake a chance projectという企画で3回公演をして頂きました。音響の加藤さんも毎回参加して下さっていますね。
加藤 都度、全然違うパターンですよね。

ボヴェ そうですね。加藤さんと初めてご一緒したのは、初期バロック音楽の単旋律歌曲をモチーフにした作品『モノディー』(2006年)ですが、それ以来、アイホールでの公演の際は、いつも素晴らしい音場を築いて頂いております。Take a chance projectの1年目には『implication』という作品を上演しました。当時は言語から離れた次元で、身体と空間の関係性を探ってゆきたいという思いが強かったため、音楽もバロック時代の器楽曲と現代音楽を用い、ミニマルな空間のうつろいの中から生まれる舞の可能性を探ってゆく作品となりました。音響に関しては、紆余曲折があった作品でしたね。私は当初、音楽と環境音による音空間で舞う作品を構想しておりました。そこで、加藤さんの山荘に伺って、16チャンネルに渡る素晴らしいサラウンドの環境音を録音して頂いたのですが(笑)。
加藤 録りました。覚えていますよ。(笑)

ボヴェ しかし、作品を詰めてゆく中で、音楽も本当に素晴らしいし、環境音も本当に素晴らしいのですが、一緒に使うのは難しい、という思いが強くなりまして、大変失礼ながら、「加藤さん御免なさい。音楽のみでゆきます」(笑)、という事がございました。2年目に上演しました『Texture Regained-記憶の肌理-』は、前作とは逆に、言葉によって想起される質感と身体の関係性に関心が移って来た時期の作品です。プルーストの『失われた時を求めて』を、女優の渋谷はるかさん(文学座)に朗読して頂き、言葉によって立ち上がる空間の中で舞うという趣向の作品になりました。

加藤 そうそう。役者さんが出てくるのですよ。

photo: Toshihiro SHIMIZU
photo: Toshihiro SHIMIZU

ボヴェ この時も、音響にまつわる打ち明け話がございまして、私は当初、音楽と朗読が響きあう空間を考えていたのですが、稽古を重ねてゆく中で、ストイックに言葉によって生み出される空間に集中した方が良いのではないか、と思い至りまして、またしても、「加藤さん、大変申し訳ございません、朗読だけに致します」と(笑)。

加藤 そうそう。そうでした(笑)。

ボヴェ しかし、カーテンコールの後に、リヒテルの《平均律》を絶妙な響きで流して頂き、それによって本編の静寂が際立つという、素晴らしい仕事をして下さいました。3年目の『消息の風景―能《杜若》―』は、7名の能楽師の方々を共演に迎え、能の古典曲《杜若》に挑むという企画でした。この時は加藤さんに大活躍して頂きましたね。

加藤 伝統的にリハーサルをされない方達なのですが、今回は少しやって頂けたので、助かりました。

ボヴェ 能舞台の場合は、囃子方の後方にある、老い松の描かれた鏡板が反響版の役割をはたし、空間全体に音の返りがあるのですが、アイホールは音を吸収する作りの空間ですので、能楽師の方々にとりましては、音の返りがないので厳しかったと思うのですが、加藤さんが繊細に調整して下さり、本当に素晴らしい音場を作って頂きました。

photo: Toshihiro SHIMIZU
photo: Toshihiro SHIMIZU

加藤 あの方達はインプロが出来る人なのですよね。古典でありながら。ですからその辺りを鍛えられている所があったのかも分かりませんね。だけれども、こちらはきっちりリハーサルをして、決めたようにしたい所もあるしね。楽ですもの、その方が。安全パイだしね。

ボヴェ ただ、能のお囃子はとても繊細で、気候によって音が全く変わってしまうのですよね。本番の日は少し雨が降っていて、お客様がその湿り気を沢山もって来られたので、申し合せ(リハーサル)の時と楽器の響きが変わり、そのままの音響バランスでは、若干難しい部分があったのですが、本番中に加藤さんが瞬時に判断して、調整して下さいましたよね。素晴らしい響きに、能楽師の方も関心しておられました。今回はクラシック音楽のJ.S.バッハ晩年の作品《ミサ曲ロ短調》に挑ませて頂くわけですが。

加藤 実は、バッハの《ロ短調》と聞いた時、ちょっと引っかかったんですよ。僕自体が、SFC=サウンド・フィールド・コントロールという、音楽に相応しい音の響きをつくって行こうという挑戦をしているのですが、音楽が生まれた環境って大切でしょう。だから以前、初演会場と音楽の関係というのを、調べていた時期があったんですよ。ある曲を誰かが書きました。その曲は、初演会場に相応しいような音を作ったりしているのかなあ、という想像で。実際は、ほとんど一致しない場合が多いんですけれども。それと、ベートーヴェン以降のコンサートホールが出来てからの音楽は、コンサート形式による演奏会との関係があって、昔の宮廷音楽や教会音楽との関係とはまた違いますし。でもバッハの時代の教会音楽だったら、その教会に相応しい書き方をするんではないかなあと。で、何も知らずに有名な《ロ短調》に挑戦してみたんです、本当に予備知識無しに。そうしたらどうも一致しないんですよね。と言うのは、この曲は晩年の集大成でしょ。だから時代を超えてしまっている曲なのかも分からないし、彼の属していた所よりも大きなスケールで、いろんな事をひっくるめて書いているみたいなんで。だから、あまり有名どころをピックアップすると、音楽と建物の関係が一致しないんだなあと、最初に躓いたというか引っかかった曲なので、今回《ロ短調》と言われた時、「んっ」と思いました。リベンジかも分かりませんよある意味で。

ボヴェ 確かにバッハの作曲した他のカンタータや受難曲などは、今も現存している教会で、バッハ自身が聖歌隊(少年合唱)と器楽合奏を指揮し、初演しているわけですが、当時《ミサ曲ロ短調》が全曲演奏された記録は無いですし。

加藤 現実にミサとしては演奏されていないようですね。長すぎて教会の行事では使えないようですし。作曲年代もばらばらで、数十年経っているんじゃないんですか?

ボヴェ 〈キリエ〉と〈グローリア〉が出来たのが1733年で、最終的にミサの典礼文全文に作曲をしてまとめたのは、亡くなる前年の1749年。〈サンクトゥス〉はもっと前の1724年の作曲ですから、だいたい四半世紀ですね。ですので、初演空間と響きの関係性という側面から見ますと。

加藤 脈略がなくて、なかなか難しいのですよ(笑)。

小倉 何故この曲をやろうと思われたのですか。

ボヴェ まずは、バッハを舞いたいという思いがありまして。過去の作品でもいくつかバッハの楽曲を断片的に用いているのですが、一度、バッハそのものに向き合うような作品に挑戦してみたい、という思いから今回の企画を構想しました。バッハの音楽は私にとって、とても大きな存在なのですよ。舞踊を始める前から個人的に楽器(ヴァイオリンとピアノ)を嗜んでいたということもありますが、常に大切な音楽であり続けています。

加藤 それは、バッハですか、それともバッハの教会音楽ですか。関係なくバッハ?

ボヴェ バッハですね。聖俗どちらの曲も含めて。バッハの音楽は自分がどんな心理状態の時に聴いても心が鎮まってくるのですよ。同じクラシック音楽であってもベートーヴェン以降の音楽は、作曲家の思いといいますか、感情が強く押し出されて来ますので、その思いに共鳴できる時にはじっくりと聴けるのですが、今日はちょっとそういう気分ではない、という時も結構あるのですよ。

加藤 そうそう。今日はちょっとしんどいという時、ありますよね。

ボヴェ でもバッハの音楽は、うきやかな気分の時でも沈める時でも、自分の気持ちを煩わされずに聴く事が出来るのですよね。私の音楽の感情を受け止めて!というアプローチがあまり無いからでしょうか。バッハの音楽はただそこに厳然とある。バッハの音楽は聴き手を見つめているわけでも、自己の内面を見つめているわけでもなくて、もっと遠い所に視点が向かっているように感じるのですよね。ですから聴いていて、自分の心の視線とかちあわないので、凄く良いのですよ。バッハの音楽に私は必要とされていない、であるがゆえにもたらされる喜び、と言いますか。

加藤 バッハの音楽に私は必要とされていない?

ボヴェ ええ。例えば、本当に素晴らしい風景に出会った時に、気持ちが安らぎ落ち着いて来るという事がありますよね。その感覚に近いと思うのですよ。しかし、風景は別に私の為にそこに現れたわけではないですよね。私の心とは関係なく風景は現れうつろってゆく、その事に気づいた時にもたらされる安心感と言いますか。バッハの音楽も、そのニュアンスに通じるような感覚をもたらしてくれます。それがバッハの音楽の魅力なのですよね。自分がどうであれバッハの音楽はそこにいてくれる。

photo: Hironobu HOSOKAWA
photo: Hironobu HOSOKAWA

加藤 どんな時でも聴ける音楽の代表格として、モーツァルトなんかもありますよね。でも、ディベルトメントで踊りなさい、というと何か少し違うでしょ。メロディーがありすぎるのかどうか。でもミサもあるし、モテットもあるし。

ボヴェ モーツァルトは小さい頃好きで、バッハよりもよく聴いていましたね。父親もモーツァルトが大好きでしたので、いつも家に流れていました。でも思春期の頃でしょうか、モーツァルトのあの無邪気さが恐ろしくなって、聴けなくなった時期があったのですよ。人生はこんなにキラキラと無邪気に輝いているはずはないと(笑)。怖くなってくるのですよ、モーツァルトの音楽を聴いていると。それでずっとモーツァルトの音楽から離れていたのですが、数年前にふと聴いてみたら、モーツァルトはなんて美しいのだろうと、またあの無邪気さに身を委ねることが出来るようになっていました(笑)。ピアノ・コンチェルトとか、良いですよね、本当に。しかし舞うとなると少し違和感があるのですよね。ため息のように短いメロディーですから。

加藤 バレエとかだったら、モーツァルトも使えるところがあるかも分からないけれども、ボヴェさんの雰囲気のダンスの場合は、モーツァルトは邪魔なものかもしれないな。でも、先ほど言いましたモテットとかは、どうでしょう?

ボヴェ レクイエムとか(笑)

加藤 そうそう。それからいつでも聴ける軽さという面では、私が先ほど雑談でお話していた、ハワイアンもそうなのですよ。あの軽く演奏する難しさというか、非常に簡単な単純な音楽のようであの軽さは難しい。話しがどこかへ行ってしまいそうですね。バッハに戻しましょう(笑)。

ボヴェ 先ほど加藤さんが、バッハの音楽は器楽曲を聴いていたのですか、それとも教会音楽ですか、と聞かれましたが、やはり宗教音楽に対するある種の躊躇というものがありまして、基本的にはずっと器楽曲を聴いていました。私の父はデンマーク人なのですが、デンマークはプロテスタントの国ですので、バッハの音楽は生活に浸透しているのですね。先年亡くなりました祖父が、バッハをよく聴いていたのですが、子供の頃の原体験として、その姿を鮮明に憶えています。祖父の住んでいた蔦葛に覆われた古い屋敷の、玄関から応接間を越え、晩餐の間からピアノのある広間を越えた、屋敷の一番奥にあるサンルーフの暖炉の横に、大きな揺り椅子がありまして、そこに祖父が目を瞑りながら身を沈めているのですよ。そんな時には大概、バッハのカンタータが大音量で流れているのですが、そこはもう、子供の近寄れない空間なのですよね。普段は明るく気さくな人でしたが、祖父は町医者をしておりましたので、人の生と死に日々向き合っていたのでしょうね、バッハを聴いている姿には重いものがありました。そういった幼少期を過ごしていた事もありまして、バッハの教会音楽には、若干踏み込み難い部分があり、もっぱら好きで聴いていたのは、器楽曲でしたね。その後、クラシックをあまり聴いていなかった時代もありました。西欧のクラシックよりも、能や義太夫、地唄などに触れている時間が多くなって来まして。その中で、やっぱり人の声って素敵だなと思うようになり、改めてバッハの声楽曲を聴きなおしてみたところ、何て素晴らしいのだろうと。やはりバッハはカンタータなのかなと思いましたね。

加藤 私もキリスト教をあまり知らないのと、言葉が分からないのとで、やや抵抗があったのですが、ある時期にカンタータを聴いた時に、ああ良いなと。そこから割りとカンタータをよく聴いていますね。言葉に対しての障害どうこうはあるのだけれども、今回の〈キリエ〉(ミサ曲ロ短調の冒頭曲)の歌詞って「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)それだけでしょ。それをコーラスで幾度も繰り返しながら展開するわけですよ。

ボヴェ 10分以上(笑)。

加藤 それはもう、言葉を分かるも何もないですものね。訳詩で、「こんな事を言っているのだな」、と分かれば良いのかなと。

ボヴェ ミサ曲はラテン語のミサ典礼文に曲をつけたものですが、全文に作曲した楽譜が残るのは14世紀のマショーですとか、あの辺からですよね。その後、現代に至るまで、数多くのミサ曲が書かれています。私は、16世紀のパレストリーナや、バッハと同時代のゼレンカの曲なども好きですね。しかし、2分もあれば読み終えてしまう短文に、バッハは2時間近い曲をつけているのですから、凄いですよね。さすがに今回は、全曲は用いませんが。

加藤 音に携わっている立場としては、バッハってなかなか大変な時があるんですよ。例えば《ブランデンブルク協奏曲》ってあるでしょ。フルートとヴァイオリンの曲、〈5番〉なんかがそうでしょ。この曲を録音するとなると、ヴァイオリンを大きくしないといけない。普通生で聴くとフルートの方が大きい音のはずなのに、とかね。今回は録音音源を使うわけですが、ボヴェさんが候補にあげられた演奏を聴きますと、古楽器を意識されていますよね。古楽器の演奏の場合は、フルートではなくてトラヴェルソになるから若干音量も抑えられていますけれど、バロック・ヴァイオリンも小さいし(笑)。そのへんの、ソロの楽器同士のコンチェルトの音量差とかが、何かね、曖昧な感じなのですよね。いい加減なのかなと思ったり。時代が違うので本当の音が再現されていないのかもしれませんが。この話をある音楽家の方に話したら「当然、当時録音なんて意識していないから、マイクで録ってどうなるかなんて考えて無いんじゃない」と一言で言われて、それもそうかなと。やっかいですよバッハさんは(笑)。

ボヴェ 録音の話で言いますと、バッハの音楽は、本当にいろいろな方が様々なアプローチで演奏し、録音も残されていますよね。当時使用されていた古楽器から、ピアノやヴァイオリンなどのモダン楽器。それからジャズやロック、ポップスに到るまで様々に編曲されていますけれども、どれも不思議な魅力がありますよね。音楽の構造が磐石なので、いくら崩してもバッハの音楽に変わりはなく、いろいろな魅力を見出してくれるのでしょうね。私も経験がありまして、携帯電話が普及しはじめの頃、着信音ってまだ単音のブザー音みたいでしたでしょ。音符を入力すると自分の好きなメロディーを奏でてくれるシステムがありましたので、いろいろと遊んでいたのですが、ショパンではだめなのですよ、やはりピアノでないと。でもバッハはブザー音でも素晴らしく、思わず耳を澄ませてしまう(笑)。バッハ恐るべしと思いましたね。私は古楽器による、当時の時代考証をしっかり踏まえた演奏が一番好きなのですが、同時に楽器を越えた、バッハの響きの魅力というものも感じています。グールドのピアノも良いですし、レオンハルトのチェンバロも本当に素晴らしい。音の響きは全く違うけれども、やはりどちらもバッハの魅力に満ちているのですよね。
 バッハは生涯にわたって様々な楽器で音楽の可能性を模索していたわけですが、晩年は、それまで書きためて来た自分の作品を、もう一度まとめ直してゆく作業に集中してゆくのですが、具体的な楽器や編成の指示が無い曲も増えてくるのですよね。器楽曲でしたら《フーガの技法》、声楽曲ではこの《ミサ曲ロ短調》になると思うのですけれど、実際に、何処で誰に演奏してもらう為に、その響きを想定して書いている、というものでも、もはや無いのかもしれませんね。そして今日に至るまで、さまざまな演奏家が、いろいろな楽器編成でバッハの曲に挑み、魅力的な演奏をしてくれています。数多の録音が残るバッハですが、改めて舞う事を前提に聴き進めてゆく中で、この《ミサ曲ロ短調》が浮かび上がってきたのですよ。

加藤 しんどくない曲の代表ですね。例えば受難曲とかは、やっぱりしんどい時があるんですよ。自分の気持ち的に、今日はしんどいな、という時が。カンタータは年代もいろいろで数もあるからそうでもない。それから教会でない世俗カンタータの場合は、それなりの楽しさみたいなものがあるでしょ。いろいろな特徴がある中で《ミサ曲ロ短調》はいつでも聴ける音楽なのかも分かりませんね。

ボヴェ 何と言いますか、時間の流れが消失してゆくような、時間を超えてゆくような響きですよね。私は、《マタイ受難曲》や《ヨハネ受難曲》なども好きですが、やはりドラマの流れというのが大きくあって、それを音楽で劇的に描いてゆきますので、同じ教会音楽でも大分趣きが違いますよね。

加藤 ああ、ドラマね。バッハはどうも、オペラにも興味があったみたいで、オペラもやりたかったんですよね。でもやっていない。受難曲はその辺の要素があるのでしょうね。しかし、《ロ短調》はそういう曲では無いのでしょうね。そうかドラマが無いのか。

ボヴェ バッハの音楽は、曲によって様々な表情がありますが、私にとって興が乗ってくるといいますか、舞を呼び起こすニュアンスの曲を探ってみますと、対位法で書かれた曲が多い事に気が付いたのですよ。主旋律とそれを支える伴奏という関係ではなくて、冒頭曲の〈キリエ〉など正にそうですが、一つの主題を共有しながら、一つ一つ独立した複数の旋律が繊細に響き合う中から、一つの大きな音の流れを生み出してゆくという、多声旋律の構造。それは結構、自分の舞の構造に近い側面があると感じているのですよ。何かのドラマを表現するのではなくて、足を踏み出すことで力が生まれ、それが身体の中を通って舞となり、そしてまた新しい足を踏み出すことで、新しい力線が生まれてくる。いくつかの力線が身体の中で有機的に響き合う事で、舞が展開してゆくというメカニズムと、共鳴する部分があるのではないかと。バッハの音楽を聴いていると、色々な旋律が自分の身体の中に入ってきて、それが舞の力線に新たな方向性を生み出してゆくような感覚もあるのですよね。ですから今回、自分がバッハの対位法の旋律にもう一つ、舞という旋律を添えてゆくような関わり方ができないか、とも思っているのですよ。バッハの響きに、私の舞の響きが加わって、それが空間化して奥行きのある時間と空間が生まれたら良いなと。

photo: Toshihiro SHIMIZU
photo: Toshihiro SHIMIZU

加藤 そうかそうか、多声音楽プラスワンみたいな、そこに絡みましょうと。ちょっとテーマがあり過ぎて踊りには相応しくないかも分からないけれども《音楽の捧げ物》の中の〈6声のリチェルカーレ〉はどうですか。

ボヴェ 〈6声のリチェルカーレ〉!!良いですね。

加藤 あれは数がありすぎですか?ダンスとの絡みでいうと。1声、2声に絡めてはいいけど、6声までいくと(笑)。

ボヴェ いえいえ。あのくらいまでいくと、身体の中が繭みたいになってゆく感じで、良いですよ(笑)。

加藤 ああ。織り成されているという感じで。

ボヴェ そうです。もしも、バッハの曲の中から1曲選んで下さいと言われたら《音楽の捧げ物》の〈6声のリチェルカーレ〉を選びますね。先ほどもお話しました、一つの主題を共有しながら、一つ一つ独立した複数の旋律が繊細に響き合うことで、一つの大きな音の流れを生み出してゆくという、そういう関係性は本当に理想的ですね。同じく対位法で書かれ、数学的構造美が際立つ《フーガの技法》も素敵なのですが、ちょっと私には重すぎるのですよね。〈6声のリチェルカーレ〉の主題の方が、より格調と気品があり、個人的には好きですね。そういう意味では《音楽の捧げ物》がある種の理想的な形なのですが、それに対応する声楽曲がこの《ミサ曲ロ短調》なのでしょうね。

加藤 そうかそうか。多声音楽の中の一声として身体が絡んでくる感じが。

ボヴェ それがどうやら、自分の中でしっくりいく解釈なのですよね。何故これほどバッハの音楽に惹かれるのだろうと、改めて振り返ってみた時に、その点が見えてきたのですよ。しかし、では中世のポリフォニーで舞えるかというと、ちょっと難しいのですよね。それは何故なのかと考えていたのですが、どうやらバロック音楽の特徴である通奏低音の存在が、一つネックにあるような気がしています。多声旋律だけではなくて、そこにプラス通奏低音があることで、通奏低音を足がかりに、そこに自分も一つの旋律となって分け入ってゆけるような気がしているのですよね。旋律だけの世界では、取り付く島が無いのかなと。

加藤 なるほど。面白いですね。

ボヴェ そういうわけで《ミサ曲ロ短調》を選曲しようと思ったのですよ。冒頭の〈キリエ〉は正に、今お話した多声旋律と通奏低音の理想的な関係性を持っているのですが、一方で〈ドミネ・デウス〉等の二重唱や独唱では、その後の古典派時代を思わせるギャラントな、当時の最先端の手法が使われていたり、また一方で〈コンフィテオル〉のように、遥か昔のグレゴリオ聖歌や中世のポリフォニーの手法で書かれた曲もあるのですよね。バッハは終生、音楽の可能性を模索していて、古典、現代を問わず様々な手法を学び続けていたのでしょうね。そして、自分が見出した音楽の旋律や手法を職人的に磨き続けてゆくのですよ。若い頃に作った自分の作品も含めて、音楽を何度も鋳直して精度を高めてゆこうという。そういう姿勢は凄く素敵ですね。

加藤 結局バッハはいろいろな事を試みて、削ぎ落として《ロ短調》にまとめているのでしょうね。だから、落ち着いているんでしょうね。全体として。という事で、初演が分からないのですよ。

小倉 加藤さんがおっしゃっていた挫折について、もう一度聞かせて頂いても良いですか。

加藤 演奏される空間、つまり建物の響きと、音楽・作曲の響きは非常に密接な関係があるので、初演会場に面白い事があるのかなあと思って調べていたんだけど、そうじゃないというか、この曲については調べようが無いのかも分からないし。

ボヴェ 加藤さんのスタンスからすると、この曲はアプローチが難しいですよね。

加藤 我々のいる建物という空間には6つの壁があるんですよ。天井と床と両サイドと前後とね。アイホールもそう。6つの壁で囲まれている空間なんです。音響効果をしている中でよく、波の音を出すのに小豆をどうこう、という話があるでしょ。あれは、建築的空間というのが厳然とあって、その音空間の中で波の音を表現しようとした時に、誰が探してきたのか分からないけれど、これが良いんじゃないって、試してみたら、「やった!波に聴こえるぞ」、みたいな手法なわけだけど、実は、波の音をちゃんと録音して、良いスピーカーで出すよりも、はるかに収まっているんですよ、その空間の中に。だから、空間に馴染むやりかたなのですね。でも今回は、空間をもう一つ越えて、壁からもっと外へ飛び出したようなものを作らないと、いけないんだろうな。そういう空間作りをね、したいんですよね。あの中で馴染む音はね、また違う手法でいろいろある。でも今回は、アイホールのあの空間を越えて、違う空間にアイホールがならないとだめなのかなと思っているんですよね。

ボヴェ アイホールで演奏しているというよりは、アイホールを越えた、ある種の響きが生み出す空間。

加藤 そうそう。で、越えても良いんじゃないかな、この曲は、みたいな。ただそれと、ボヴェさんのダンスとどうあるべきか、というのがあって。音楽とダンスは非常に密接に関わっているでしょ。変に音量だけ大きくしてしまうと、ダンスを邪魔する場合もあるし。音量設定も悩みの一つですよね。どうにかしないといけないですよね。でも今回は、そういう事を考えられないんですよね、何故か(笑)。どうしたら良いんだろうと。もうそれを超えてしまっている曲なのかもしれませんね。音量でダンスを消してしまう可能性はあるかも分からないけれども、それでも良いのかな、ボヴェさんを無視して考えても良いのかなあ、と思ったり(笑)。と同時に、さっきのお話の中で言われていた、多声音楽のもう一つの声部に肉体表現がなれば、ということで言うと、もっと密接に関らなければいけないのかな、とかね。迷いますね。

ボヴェ 結構、曲によってアプローチを変えても良いのかもしれませんね。

加藤 ああ、そうですね。結構違うものね。

ボヴェ 例えば〈キリエ〉は、超えてしまっている音楽だと思うのですよ。

加藤 超えていますよね。ボヴェさん無視(笑)。

ボヴェ 無視で良いと思いますよ。私はバッハの音の大海原をふわーっと泳いでいれば良いのですよ。波のまにまに、たゆたっていれば(笑)。ただ、例えば二重唱や独唱は、歌手の息のつめひらきや独奏ヴァイオリンの奏でる繊細なテクスチュアと添うような関係が良いのかなと。大音量でオーボエ・ダモーレが鳴り響いているという感じでは無いですよね。

加藤 そうですよね。それはおかしいですよね。

ボヴェ ですから、曲ごとに調整してみたら良いのかなと。バッハのいろいろな手法が詰まった曲、それぞれに対して最良のアプローチを試みるという。

加藤 そうかそうか。なるほど。違いますものね。ごった煮ですものね。そうしましょう。

ボヴェ ごった煮を逆手にとって、曲ごとの魅力を繊細に探ってゆくことが出来たらすごく良さそうですね。音響の方向性も見えてきましたね。インタビューというよりは打合せの様相を呈して参りましたが(笑)。

小倉 バッハについてボヴェさんが言っていた、スタンスが似ているというか、バッハの音楽は何かを押し付けてこない、というのは、ボヴェさんがやろうとしている、ダンスにつながっている所がありますね。何かその、景色を見るようにとか。

ボヴェ そうですね。私はもう、風景になれたら良いなと思っているのですよ。最近、能と共演させていただく機会もあるのですが、能も押し付けてこないのですよね。厳然と強固な世界が出来上がっているのだけれども、そこに何を見出すかは、観客にゆだねられている。そういった距離感といいますか、余白の感じが凄く良いなと思っていて。

photo: Toshihiro SHIMIZU
photo: Toshihiro SHIMIZU

クラシック音楽の世界ではバッハの音楽がそれを実現しているのかなと感じているのですよ。勿論、音楽の構造は全然違いますよ、バッハと能は。でも似た感覚を覚える部分が凄く多いのですよね。それは先ほどお話した旋律の関係性に象徴的な、音楽に対する姿勢の現れによるものかもしれません。能も四拍子(笛・鼓・大鼓・太鼓)や地謡がそれぞれ独立した世界をしっかり持っていて、それをその場でぶつけ合うわけですよね。シテ方の身体に向かって照射されたエネルギーが、プリズムのように乱反射して、そこに観客は思い思いの余情を見出すわけです。バッハの音楽も楽器や声が、常に対等に絡みあいながら、より高い次元の響きを目指している、そんな音楽なのではないかと思うのですよ。その関係性の中に私も一つの身体をもって加わる事が出来たら良いなと思っています。バッハの音楽と舞が豊かに響き合う空間。そのような舞台を目指して、加藤さんのお力添えを頂きながら、力を尽くして参りたいと思います。

小倉 今日は長時間ありがとうございました。

ボヴェ・加藤 ありがとうございました。

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ボヴェ太郎(Taro BOVE)http://tarobove.com 舞踊家・振付家。1981年生まれ。“空間の〈ゆらぎ〉を知覚し、変容してゆく「聴く」身体”をコンセプトに創作を行なう。主な作品に、『不在の痕跡』、『implication』、『余白の辺縁』、『Texture Regained-記憶の肌理-』、『Fragments-枕草子-』等がある。能楽との共演作品に、『消息の風景-能《杜若》-』、『Reflection-能《井筒》-』、『静寂の焔-能《葵上》-』。劇場作品の他、『微か』(世田谷美術館)、「カンディンスキー展」(京都国立近代美術館)における公演、『陰翳』(国指定重要文化財・旧岡田家住宅)、西ジャワの古典歌曲トゥンバン・スンダとの共演(愛知芸術文化センター)等がある。
加藤陽一郎(かとう・よういちろう)
舞台音響。(株)エスエフシー代表。1976年より、 舞台音響を始める。川西市文化会館、大阪府立労働センターホール/万国博ホール等で音響を担当。1985年頃から音楽と建築の響きの関係に興味を持ち始め る。1987年「音場制御の公開実験」を開催(伊丹市立文化会館)。1988年 (株)エスエフシーを設立(Sound field Controlの略)。1991年 音楽家・ ダンサー・美術家・舞台照明・舞台音響との複合芸術をめざして「ファイブエレメンツ」を企画(AIHALL) 以後Sound field Controlの手法を取り入れた様々なダンス /パフォーマンス/コラボレーションに参加し現在に至る。
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