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伴戸千雅子「母ちゃんと赤ちゃんのカラダ学 番外編」×手塚夏子

2012年12月11日

手塚夏子との対話


 手塚夏子さんが、2012年の暮れから翌年にかけて、新作「私的解剖実験6」を3都市(福岡、横浜、神戸)で上演する。2年ぶりとなるこの公演にいたる経緯や、作品のことなどを伺った。

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私的解剖実験-6 『虚像からの旅立ち』
振付:手塚夏子
演奏:カンノケント
出演:若林里枝、捩子ぴじん、大澤寅雄、萩原雄太、手塚夏子
神戸公演  福岡公演:12月22,23日、横浜公演:1月13,14日の詳細は下記手塚夏子サイトをご覧ください
日時: 2013年2月3日(日)15 :00-、4日(月)20:00-
会場: ArtTheater dB KOBE
料金:前売;2500円、当日;2800円 下記手塚夏子サイトより予約受付中
URL:http://natsukote-info.blogspot.jp/


 手塚夏子と言えば、「観察」する人。2年前の「私的解剖実験5」では、人との関係の可能性を狭めていく身体的な変化など(手塚さんは「システム」と呼ぶ)を、映像で「観察」して見つけ、本番ではライブで会話をしながら10段階で身体を変化(可能性を広げ、狭める)させるという実験をしたそうである。
 それを思いついたのは、表面的には何にも問題がないように見える関係なのに、例えばその人に会うとしんどい、圧力を感じる、つきたくもないウソをつく、みたいなことがあるのはなぜだろう、というところから。
 「それを『観察』することで、そこから脱することができるんじゃないかって。でも実際にやってみたら、あまりにもしんどくて」と笑う。「一方で現実に、今関東にいると、震災後関係の可能性を狭めるようなことがどんどん起きていて…」。横浜生まれの手塚さんは震災後、息子と熊本に暮らしている。
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民俗芸能の観察

伴戸:「私的解剖実験6」について聞かせてください。

手塚:2年程前から民俗芸能、お祭りを「観察」しているんです。簡単に言うと、「近代って何だったんだろう」という疑問が自分の中にあって、それが民俗芸能を観察することにつながっています。
 例えば、「ダンス」の歴史を見ると、コンテンポラリーは、モダンダンスや西洋のダンスの歴史の延長線上にあるけど、私たちがその根っこにつながっている実感は全然ない。でも、近代化以前の日本と自分の間にも、何にもつながりがないような気がして。

伴戸:近代化する前って、明治維新とかその辺り?

手塚:そうそう。黒船ですね。例えば、私たちは洋服を着て、家やアパートに住んで、音楽の授業でドレミを習って、西洋の絵具で絵を描いている。それが一体どこにさかのぼれるのか。さかのぼっていくと、明治維新のところでガツンと止まっちゃう。それ以前のものが受け継がれた訳じゃなくて、そこで何か止まる。それより前にはさかのぼれない、壁がある感じがしたの。
 ダンスは身体のことなんだけど、近代化前の身体と以降の身体は、ずい分違うと思う。でね、民俗芸能は、基本的には、近代化以前からつむがれているものでしょ。もちろん変わってはいるだろうけど、つむがれてきたものとして観察した時に、そこに近代化以前の何かを手探りできないか、あるいは何か、今の自分とつなぐポイントがあるのではと。

伴戸:お祭りを観察してどうですか。

手塚:それぞれの芸能はそれぞれの地域のものではあるんだけど、「これが日本のルーツ」みたいに、国でくくれる訳じゃないなと思った。

伴戸:観察の方法ってあるの?

手塚:最初はどういう風に観察していいか全く分からず、ただ行って、ただ驚く。「こんなのがあるんだ。衝撃!」みたいな。自分が持っていた「日本とはこういうものだ」というイメージも全部壊された。

伴戸:どんなイメージを持ってたの?

手塚:歌舞伎とかお能とか、武士文化みたいな。色彩も黒と紺と小豆色のイメージ。自分で勝手に持っていたと思うけど。

伴戸:イメージが壊されたのは、例えば、どんなところで?

手塚:例えば、韓国で見たようなラッパや銅鑼、シンバルのような楽器が使われていたり。派手なピンクのズボンとか。色彩、雰囲気が中国や韓国に近い部分がある。中国とか韓国も自分で勝手にイメージしてる訳だけど。でも、そういう線引きがない、出来ないんだってことが、分かってきた。

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奥三河で花祭り稽古

手塚:奥三河に一週間くらい滞在して花祭りを教えてもらったんです。そこはまずコミュニティのあり方が違う。朝、昼、夜に稽古して、それぞれの稽古が終わった後に必ずお酒が出てくる。なにかね、線引きってもんがないんですよね。例えば、謝礼がこれなら稽古はこれくらいとか、生活があるから稽古はこの時間帯でとか、そういうのもない。もう朝から晩までだし、お酒も出すし。教えるのも、いくらでも教える。話せば、いくらでも話す。

伴戸:土地の人じゃなくても分け隔てなく教えるのかな。

手塚:本当は土地の人じゃないと教えてもらえないんだけど、例外中の例外。最初の稽古の夜に集まって話をした時、「おれはこんなのは賛成できねえ」って言ってた人がいたし、「なんだ、お前たちは」「なんでこういうことやりに来たんだ」とか、何をやっているのかを聞かれた。「今日の稽古見たけど、全くなってない!」とか。そういう感じから始まったんだけど、一回受け入れるって決めたら、もうとことん線引きしない。

伴戸:熱いね。

手塚:だから、ちょっと生きる力をもらった。それがあって、祭りを見に行ったから、本当にもう、すごかった。舞台を見て、「良かった」「悪かった」とかいうレベルじゃない。何かが流れ込んじゃうっていうか。それにひたるっていうか。
 祭りは昼から始まって翌日の昼まで、ほぼ24時間やる。ただ長いだけじゃなくて一つ一つがね…。鬼の舞で、斧を振り下ろす動きがあったんだけど、振り下ろした瞬間に、パーンって何かが割れた気がして、会場の空気が変わった。その行為自体にある呪術性が、現在もつながってるとその時は感じたの。有名な人が演じてるわけでもなく、誰か知らない匿名の鬼で、そういうことが起きるのが、すごいなあって。
 間接的に聞いたんだけど、鬼の人は、鬼の面を付ける時に、もう帰って来れなくなるんじゃないかと思うんだって。また自分が人間に戻って来れるのかって。

伴戸:すごい覚悟だね。

手塚:その面がもうやばいんだけどね。いろんな純粋な意味で媒介者になると思うんだ。鬼的なものがそこにちゃんと入ってこれるような。媒介という言葉は便利に使える。媒介って、そんな言葉は日本では使ってなかったけれども。

伴戸:そうなの?

手塚:そんな気がする。媒介は、あまりにも基本的なことだったから言葉がなかったのかなって。巫女であるとか、そういうこともそうだし。

伴戸:日本人にはそういう能力があるね。ふっとなってしまうみたいな。肉体から離れていくというか。

手塚:そういうのが普通っていうかね。この前バリ島に行って、トランスの儀式、神事を見たの。そしたら見に来た人がトランスするのね。ごく普通に。トランス、媒介してしまうことが当たり前にあったのかなって思った。身体はただ媒介するだけの存在。日本という国の中だけに限らず、アジア全体にそういう媒介の感覚がある。

伴戸:トランスという行為をどう捉えているのかな。健康増進じゃないけど、リニューアルするみたいな感じかな。

手塚:浄化の一環だろうって思ったけど。個人の浄化じゃないよね。人々とか、コミュニティとかの浄化。

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内発性がフツフツ湧いてくる

伴戸:で、今度の作品は…

手塚:手塚夏子という個人が作る、という意味では、祭りの行為とは全然違う。すごく距離がある。作品という枠の中に、作品ではあり得ない部分を…あんまり言うとネタばらしになるなあ。

伴戸:前の作品から2年たって、その間いろんな観察作業をしてきて、何かまとまってきたものがあるの?

手塚:まとまっちゃいないのだけど…。震災があったでしょ。震災があった時に、結局何をやっても役割を持ちえないと思うこともあった。震災があってから半年くらいは、自分がどんな舞台の行為をやっても、何の役にも立たない。悲観的な気分になった。だけど、やっぱり反応しなくちゃって思った。
 私が何か感じて反応することがメディア(媒介)になり、それを見た人がまた反応したら、連鎖が起こる。昔も大きな震災があって、その時に祈るしかない、祈らざるを得ないという、身体的な反応が芸能を立ち上がらせたのではないかという気がする。反応しちゃうものが、芸能につながったとしたら、それってすごいと思うんですね。
 芸能が、人々が生きることにつながるから。例えば、飢えた人を直接救えないとしても、祭りや儀式、芸能の行為が、そこにあることで人々が生かされることがある。
 だから、震災に反応することが、作品を立ち上げる力になって、それを見た人が反応できる連鎖を生み出せたら、それは人を生かす力になるかもしれないと思ったんです。
 祭りに憧れるのも、その場で終わるものではないと思うから。

伴戸:舞台空間と祭りはギャップがあるでしょうね。

手塚:でもギャップを面白く観察できればいい。出演するのはダンサー5人と演奏家が1人。それぞれの身体の中の内発性を引き出せたらいいなと思っています。社会には、外発的な要素がすごく多いと思うんです。お金のために働かなきゃいけないし、ダンスをやっていても評価を得るために努力したり。
 でも、人の内発性がワーッと湧き立って動かざるを得なくなって、それを見た人も湧き立って身体が動く。内発的なものが原因でメディアが生まれる。そういう瞬間を作れたらいいなって思う。
踊り念仏も、あるお坊さんが民衆を救うために、念仏を唱えたところから、誰かが踊りだしたという逸話もある。踊り念仏を見た人が次々に反応して、その流れがどんどん大きくなって京都へ向かい、しまいには踊りの勢いがすごくて床板を踏み外したりして。内発性がどんどん伝播して、個人の中でも増幅していった。
 踊り念仏が結果的にいろんな芸能に火をつけたり、影響を与えたという流れがある。それって面白い事態だなって。内発性が世界の中にほとばしるという状況がすごく素敵だと思う。

昔はもっと「なっちゃう」ことが許されていたんじゃないかな

伴戸:内発性を言い換えると、本能みたいなこと?

手塚:本能というのか、例えば、赤ん坊が生まれるのは、赤ん坊の中に内発性があるから。じゃなかったら、どんなに母親がウンウンうなっても出てこない。赤ん坊は生まれれば、誰かが歩き方を教育する訳じゃなくて、自分からどうしても立ち上がりたくなって、歩きたくなって。階段とかも無駄に登ったりするでしょ、ああいうのも、つきあげられて、そうなる。
 自然とも言えるけど、自然というとすごくおだやか、内発性はもっと押し上げるような感じ。違う言葉で言うと、「なってしまう」っていうのが一つあるかな。

伴戸:そうせざるを得ない。

手塚:近代化以前は、内発性、「なっちゃう」状況がもっと許されていた気がする。だって媒介してしまうから。狐につかれるとかさ、媒介するのは普通で。踊りだしちゃったりね。
 近代化は、ある意味で内発性を抑えるシステムだと思う。外発的なものを真面目として、管理したり、頭をよくしたり。それによって文化がキュッと発達して、技術があがったのかもしれない。
伴戸:最近、本を読んで思ったのは、外側のものは抽象的だということ。「一般的にはこう言われている」とか、例えば保育所でも「みなさんに迷惑がかかる」と言われた時の「みなさん」って抽象的。それより、「私がこれはいや」とか「何となく気持ち悪い」ことの方がすごく具体的。一般的な論理は非常に具体的で、個人の言葉にならない感覚は抽象的だと、今まですり替えられてきた気がした。

手塚:確かに。自分が感じることじゃなくて、教えられたことを学びなさいみたいなところがあるじゃない。徹底されてる。

伴戸:文字に書いてあることを学ぶみたいなね。

手塚:口承、伝承って何か媒介していく訳じゃない。その人を媒介として、もし何かが変わったとしても良い訳じゃない。それが媒介だから。そうやって、人を媒介としながら伝わっていく。自然な変化とか、あるいは変わらないものとか。

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メディアの役割を持つということ

伴戸:芸能とか芸術、アートとか、その辺りの言葉で思うことはありますか。

手塚:芸能をやる人は「芸能」という言葉は意識してない。分類して線引きするための言葉で、近代化以降なんじゃないかな。身体感覚としては、もともと線引きが苦手な民族だと思う。それなのに、つじつま合わせて線引きして、いろいろ面倒くさいことになってるような。
 もちろん、活動するのには、アートという線引きがあった方が便利。得体の知れない人が許されない時代だという気がするから。線引きで整理できないことが非社会的だって感じ。「アートやってます」「コンテンポラリーダンスやってます」と言うと、何か変なことやっても許される。便利に使うことはあるなと思うけど。
 ダンスやアートであることを証明するのが大事ではなくて、媒介者であることが大事。自分にしても、自分の作品にしてもメディアの役割を持てばそれでいい。つまり、それに誰かが反応できて、次につなげられるようなものであればいい。それが例えダンスであっても、なくてもいい。自分の活動に関してそう思えるようになった。
 私もしょっちゅう、「そんなのダンスじゃない」って言われるし、そういう議論が起こるとそれはそれで面白い。線引きの言葉を使って、線引き自体を問うこともできる。
 「自然に媒介している」とか「自然になってしまっている」というのも、対象化しないと。近代化以前のものが、自分たちの中に残っていたり、つながっていたりするなら、対象化して可視化、見て感じ取れるものに持っていきたい。ただ単に戻っていけばいい、という訳ではなく。
 近代化以前のものでも、対象化することによって、あぶりだせたらいいなって。そしたら近代化の次にいけるかもしれない。ただ単にそれを戻すということも違うし、ここまできたらこのまま行くしかない、というのも違う。それ以前にあったいろんな要素に光をあててみると、見えてくるんじゃないかな。

(終)



手塚夏子(てづか・なつこ)
1970年横浜生まれのダンサー/振付家。自身の体を素材とし実験する作品『私的解剖実験』シリーズを制作。一貫して身体の観察をし続ける中で、自分の身体が世界の物事や人々に反応し続けることによって、つまり関わりが身体を作るのだという実感を得る。以来、関わりを観察する作品に転換する。その延長線上で、今、世界で起きている事はいったいなんなのか?常に問い続けて、どのような感じ方で世界を見る事が出来るか?という問いを作品化する。ニューヨーク、オーストラリア、ベルリン、ポーランド、インドネシアなど、様々な国の様々な企画で作品を上演し、2010年から、日本を始め様々なアジアの民俗芸能を調査している。311を経験した今、内発的な身体の大切さや、身体がメディアであることの大切さについて深く考えている。


伴戸千雅子(ばんど・ちかこ)
演劇、バリダンスを経て、舞踏を始める。1998年からはダンスグループ「花嵐」のメンバーとして活動(現在は休止中)。近年はソロで、ミュージシャンや映像作家とのコラボレーションを行う一方、障害を持つ人、親子などを対象としたWSのナビゲーターをつとめ、様々な身体との出会いを通じて、ダンスの可能性を探求中。


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