2011年04月9日

何かを知りたいという好奇心が動いたとき、その心の運動を物事の奥深く遠くへ導いてくれるのが、ライブラリーやアーカイヴといった公の知の集積場です。舞台の上だけの現象と考えられがちなダンスにも、古今東西のダンスについて、また人々がダンスにどんなまなざしを向けて来たのかを伝えてくれる、素敵な資料がたくさんあります。今回は、知る人ぞ知る「薄井憲二バレエ・コレクション」の魅力を、企画展「ワツラフ・ニジンスキー ~栄光と挫折~」を準備中のキュレーター、芳賀直子さんにご紹介いただきました。

協力:兵庫県立芸術文化センター
取材・構成:古後奈緒子

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このコレクションは、ダンスに関する個人所蔵のものでは世界有数の規模だそうですね。どのような特色があるのでしょうか。

芳賀:まずコレクションの柱となっているのが、ロマンティック・バレエ、ロシアの帝室バレエ、バレエ・リュス、そしてアフター・バレエ・リュスの4つで、これらについては特に充実した資料があります。
 他のコレクションと違う点はいろいろありますが、何より個人が魅力があると思ったものを、自らの足と資金とネットワークで集めたものなので、コレクターご自身の趣味と関心が反映されてる点は特徴的です。とりわけバレエ・リュス関連は充実しています。そもそもストラヴィンスキー好きが高じて、バレエ・リュスに出会ってファンになられたところに、偶然お兄さんが洋書屋さんでプログラムを見つけて買っていらしたことが、コレクションの始まりだそうです。また、ご本人が「私はロマンティックなものが好きだから」とおっしゃるように、マリー・タリオーニやファニー・エルスラーといったロマンティック・バレエのダンサーが書いたお手紙などもあります。写真もサインと献辞が書かれているものがあったり、そういった世界に一つといったものも少なくありません。
 資料の種類では、プログラムが大きな割合を占めているのも特徴の一つです。プログラムは2種類に分けて、「オフィシャル・プログラム」あるいは「スーヴニール・プログラム」と呼ばれる、写真やイラストがたくさん入っているお土産になるようなものと、当日ただで配られたり2ダイムくらいで売られたりする配役表の載ったものがあります。厳密に言うと、劇場が出しているシアターマガジンのようなものがプログラムの代わりをしていることもありますが。このコレクションでは、バレエ・リュスに関しては公式のものはほとんど、当日のものも比較的揃っていて、この点については世界にも誇っていいと思います。というのも当日プログラムは希少で、私はこのコレクションに出会う前に、5、6年くらい欧米で資料探しをしていたのですが、どんな図書館に行ってもまずこれほどのボリュームではありません。また、本来ならそれを全部集めることでしか、バレエ・リュスの全貌はわからない重要な一次資料でもあります。たとえ公式プログラムにスケジュールが出ていたとしても、ダンサーが怪我をしたり美術が届かなかったりで、予想以上に変わっていることが多いものですから。加えて、同時代の日本人で、例えば石井柏亭や小磯良平らがバレエ・リュスを見たことがわかっているのですが、画家の彼らがどの作品を目にしたのかといったことも、当日プログラムがあればわかってきます。

他のアーカイヴと合わせて見ても、面白いですね。こちらでも公演された、ハンブルク・バレエ団のジョン・ノイマイヤーさんも、ニジンスキーについて膨大なコレクションを公開していますね。また、古書収集で有名な文化人類学者の山口昌男さんが、ある講演で、楳茂都陸平の関係した作品にバレエ・リュスの影響が認められる資料を出されていました。

芳賀:お二人とも、いらっしゃったことがあるんですよ。ノイマイヤーさんは公演された折に来られて、とても面白がってくださいました。私も彼のコレクションは、オルセー美術館で展示されたされた時に拝見したのですが、全く違う視点の面白さがありました。ニジンスキーに特化していて、絵画やデッサンをたくさん、それも彼が精神を病んでからのものもかなり持っていらっしゃる。

熊川哲也さんや、金森譲さんらがコレクションに関心を持たれているとも耳にします。蒼々たる振付家や研究者が注目しているんですね。

芳賀:やはり海外で踊られた方は、自分がどういった伝統の上に立っているかを自覚せざるを得ないんでしょうね。日本のダンサーがなかなかそれに気づかず、歴史に触れる機会がないのは、残念なことだと思います。そういう意味でも、サマースクールなどでここに来るときに、見てもらえる機会ができればいいなと私は思っています。

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コンテンポラリーダンスにとって、歴史、つまり共有された記憶はとても大切だと思います。提示されたものの新しさなりが公に認識される土壌でもありますし、それがなければ、実験性のあることをやっても実験として成り立たなかったりする。

芳賀:バレエも日本では明治の頃にはすでに知られていて、学び始めてもかなりになるのに、日本で歴史を共有できるものとして作ってきたとは言えない部分がありますね。ここ10年ほどは世界的な傾向でもありますが、日本はとりわけ歴史が軽視されている。ただ、今いろんなことが起こっていて、社会構造も変わりつつある中で、過去に目を向ける動きも出てくるだろうなとは思いますけれどね。

そういえばここ数年、先鋭的な作家たちが、過去の作家や作品にインスピレーションを得て作品づくりをしていますね。バレエ・リュスに絞っても、エマニュエル・ユインが、ジョフリー・バレエの『春の祭典』のリコンストラクションを見て、創作につながるショックを受けたと語っているし、ピチェ・クランチェンは『ニジンスキー・シャム』という作品を創っています。

芳賀:バレエ・リュスがこのところ注目を集めていたのは、2009年に100周年を迎えたことも関係していたのでしょうね。前後して、ロンドンのビクトリア&アルバート美術館やストックホルムのダンス博物館など、関連する展覧会や作品上演がかなりありました。映像なども新たに出てきて、情報も資料もこれから出てくるものがあるのではと期待されているところです。ここでも2005年のオープニングの時に、日本初の『春の祭典』のリコンストラクション上演をやっています。あのような形でリコンストラクションが続けば面白いとも思いますし、ここに限らずとも創作に携わる方の何らかのソースになればとも思っています。

アーティストが利用できるのはいいですね。具体的には、どんな手続きが必要なのですか。

芳賀:施設担当課がコレクションの窓口になっており、目的と関心の焦点などをご相談いただければ、きちんとご案内できると思います。例えば『眠れる森の美女』を上演するので過去の上演について知りたい。もしくは、デザインの参考にロシア構成主義の舞台美術を見たいなど。女性の表象の変遷といったテーマでも構いません。時々「全部見たい」というご要望があるのですが、お気持ちはわかりますし、サイトで全容を紹介し切れていないということなのかも知れませんが、対応に困ってしまいますので。とにかく具体的な関心がおありになれば、うちに資料がない場合も、どこにゆけばよいかなどご提案できることもあるかと思います。それと、多くが外国の資料なので、語学力を必要とするものもありますが、イラストなど視覚的な資料も多いので、創作者側にインスピレーションを得ていただくのも良いと思います。

芳賀さんご自身が、こうしてダンスの資料に関心を持たれたきっかけは何だったのですか。

芳賀:私も薄井さんと同じで、バレエ・リュスが入り口でした。それまでに大好きだった画家、音楽家、そしてニジンスキーといった、びっくりするような人たちが一つのバレエ団にいたことを知って、最初は嘘だと思ったくらい。だって、日本人の大好きなマリー・ローランサンもいるし、そうならもっと音楽や美術の教科書とか、何かに載っているはずじゃないですか。それがないから自分で調べ始めたら、バレエと全くつながらないような人や、私が知らないアーティストも含めて、もっと面白い人たちが関わっていた。一人一人も個性に溢れていますし、つながりもどんどん広がっていく。作品のなりたち一つとっても、音楽から出来ていくとき、ダンサーからのとき、私的な感情が絡んでいるとき、一つ一つに物語があって小説を読むよりも面白いくらいです。

そうした面白さが、多様な視点の企画に反映されているのですね。

芳賀:まずはこのコレクションそのものが非常に多岐にわたるので、企画ではそのことをお見せしてきたいと考えています。実際、バレエやダンスに関心がある人でなくとも、楽しんでいただける部分がたくさんあるんですよ。
 デザインに関心がおありの方は、例えばバクストの美術なんかは、今見てもすごく新鮮でしょうし。また、1909年と1929年のプログラムでは広告もがらりと変わっていて、途中からバケーションのツアーやエステの広告などが出てきたり、イラストのコルセットの形がファッションの流行に合わせて変わって来たり。今では有名になったエルメスや、帽子屋さんの頃のココ・シャネルが広告を出していることもわかる。私自身が、プログラムを何度見ても飽きません。
 また、映像のジャンルとも興味深いつながりがあります。ここに映像資料は含まれませんが、ジャン・コクトーやレオニド・マシーンなど、映画製作に携わったアーティストの資料の他、写真の中にはバレエ・リュス・ド・モンテカルロのダンサーたちが、クラーク・ゲイブルと写っているものがある。というのは、映画の黎明期には、かなりのダンサーが映画に引っ張られたこともあり、ド・モンテカルロのダンサーの少なからずが映画に出演しているからなんです。最近研究している方も出てきて、興味深いテーマだと思います。

2008年にはチョコレート屋さんの広告特集がありました。文化史的な視点でも取上げられていますね。

芳賀:「コメディア・イリュストレ」という雑誌が、バレエ・リュスのプログラムを多く出していたので、広告が多くあるんです。広告は、ロマンティック・バレエの時代のものもあるんですよ。ダンサーのスタイルを真似た服とか、「タリオーニ風オムレツ」なんてものまで(笑)。ファッションとは、シャネルの衣裳が舞台に上がり、舞台上の衣裳が現実の流行になるといった相互的な関係もあります。バレエ・リュス・ド・モンテカルロの時代になると、「ヴォーグ」のモデルとしても活躍するダンサーが出てきます。流行を発信する広告媒体としてバレリーナを見ても面白いし、バレエダンサーが社会の中でとう捉えられて来たか、その変遷も反映している。壮大なテーマですけれど、どなたか調べてくれればいいなと思います。

見に来る人の様々な関心によって、アーカイヴから新しい価値が生み出され、活性化されてゆくわけですね。

芳賀:それはもう。何よりこの劇場自体が、いろんな人の立ち寄ることのできる場所にあるので、気軽に来られた方にも「面白い」と思っていだける企画をということはいつも考えています。

(2011年3月16日@兵庫県立芸術文化センター)

芳賀直子(はが・なおこ)
舞踊研究家 新国立劇場バレエ研修所講師
明治大学大学院文学部文学科演劇学専攻博士課程前期終了(文学修士号取得)。専門はバレエ・リュス、バレエ・スエドワ研究。幼い頃からバレエに関心を持ち続け、大学で本格的にバレエ研究を開始。各種媒体への執筆や展覧会企画・監修、各地に招かれての講演などを行っている。鎌倉在住。
著書:『ICON~伝説のバレエ・ダンサー、ニジンスキー妖像~』講談社、『バレエ・リュス~その魅力のすべて~』国書刊行会。


薄井憲二バレエ・コレクション企画展2011 「ワツラフ・ニジンスキー ~栄光と挫折~」 Vaslav Nijinsky ~Glory and setbacks~ Google Yahoo! Outlook iCal Email MySpace Facebook Twitter Add to cal! by caleynog

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飛んだまま降りてこなかった、舞踊の神とまで呼ばれ天才の名を欲しいままにしたニジンスキー。
しかし、彼が第一線で活躍したのはわずかな時間だった。
その事は彼の活躍の陰に隠れて忘れられがちかもしれない。
彼のダンサー、振付家としての素晴らしい業績と共にその人生を紹介します。

企画・監修:芳賀直子(はが・なおこ/薄井憲二バレエ・コレクション・キュレーター)

開催期間:2011年4月19日(火)-5月7日(土)
場所:兵庫県立芸術文化センター 2階メインエントランス内 情報コーナー「ポッケ」
URL:薄井憲二バレエ・コレクション
お問い合せ:兵庫県立芸術文化センター 薄井憲二バレエ・コレクション担当
電話:0798-68-0223(代表)
FAX:0798-68-0212

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