interview
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山田せつ子×三浦基 対談
2010年10月4日
「言葉と身体」。現代演劇やコンテンポラリーダンスでしばしば耳にされるキーワード。でも作家が何を問題としているのか、その内実は千差万別です。同じ問題にダンスと演劇の側からそれぞれ取り組み、『誰も、何も、どんなに巧みな物語も』を作った山田せつ子氏と三浦基氏に、今秋の公演を間近に控えてその試みについて語ってもらいました。
◆「同調」してしまって「困る」
山田:私は以前から、ダンスに言葉が介入してくることで生じる“晒される身体”といったものに興味を持っていました。そして、舞台芸術の領域で言葉と真直ぐ向き合いながら、その可能性/不可能性を探しているのが三浦さんではないかと思っていた。この3月に地点と仕事をし、その時は共同作業も考えたのですが、三浦さんの演出に出演する形に決めました。
三浦:そこはもめてますけどね。演出、ドラマトゥルク、出演などの領域がボーダレスになることをみな夢見てる。最終的な落としどころは、コラボレーション、それだって誰それの演出という風に、簡単には割り切れない。このジュネの作品は今後も展開してゆくわけですが、山田さんとの作業の途上で、まさにそういう体験をしているのかなと思っています。
山田さんとの作業を通して、僕はダンスって何だっけと考えさせられる。そこが常日頃考えている、演劇って何だっけというところと通じるのかも。現状でそこだけは一致しています。その時、山田さんがおっしゃった「ダンスに言葉が介入する…」というのは、主題としては真剣でもっともらしいんだけど、そう簡単にはいかないという実感です。まず具体的に、今回言葉をどのように使うんですか。
山田:自分で発語する箇所と、言葉が録音で流れている中で踊る箇所があります。目下、声あるいは言葉を身体から剥がす術を探して日々奮闘中です。それは主に自分で話す箇所で、どうしても体と一つになってしまうところがあって、居心地が悪いので。
三浦:自分で喋ると同調してしまうということですね。
山田:そう。踊りの際は知覚が働いていて身体が動くわけですが、そのときに発語と身体の動きがひとつになってしまったら駄目だと。何か知覚の断絶があってしかるべきだと感じるんです。なので、俳優が発語している時、身体と意識の関係がどうなっているのかも気になるのですが、くっついていて違和感がないのでしょうか。
三浦:それは演劇の領域に置き換えると歴史的な問題で、僕には「ストレートプレイになっちゃう、困った」と聞こえる。というのも、リアリズムでもナチュラリズムでもいいのですが、一般的なストレートプレイでは、役と俳優が同調しているように見えれば上手いとされている。そこでは今言われたようなことは全く問題にならないんです。ただし、現代演劇にはベケットという興味深い例があります。『わたしじゃない』など、「喋っているのは私じゃない」と、べらべら喋りながら自身を否定してゆく登場人物しかいない。そのとき身体はどうなっていくのかというと、殺していく、なくしていくんですね。登場人物として目に見えるのは「口」だけで、身体は見ないでくださいとなる。
地点の試みもまた、振返ってみれば、言葉と体というものをベケット的に探求してきたという気がします。その時やっぱり体は動かさず、固定することで殺して、なくしていった。でもなくなるわけがなく、観客には見えている。するとナチュラリズムの演技や日常の動作とは違うところで、俳優が体を扱っているのが微細なレベルで見えるんじゃないだろうか。よく言えばそういうこと。意地悪な言い方をすると幻想、妄想。「動いてないだけじゃん」と。いずれにせよ、地点の安部聡子にはそういう体が染み付いています。
で、山田さんも違う方向からこの問題に取り組んでおられる。自分で喋る箇所では、体はどうされていますか。動く、動かない?
山田:動きます。手が動いて手話的になってしまったりしますね。今回のように特にテクストを用いないときでも、踊っている時は、人には聞こえない言葉を内包して踊っているところが私にはある。それを口に出していない時はまだいいのですが、出した瞬間、言葉の持つ強い力—意味性など―に体のほうがかすめ取られて行く。それが手話に見えてきてしんどいところです。
三浦:説明的になってしまうということ? なら、自分がやってきた手法で考えれば、動かないほうが得です(笑)。勿論、言動不一致に、つまり全く関係ない動きをやるという選択肢はあるけど、「今喋ってるから体は黙ってて」という感覚が自然なのかなと。でもそれだとなかなか先に進めなくなるんですよね。「言葉と身体」とはよく一緒に立てられるモチーフだけど、両者を切り離して考えて、喋ってる時は動かないほうがいい、つまり、喋ってない時に内包された言葉―思考と言っていいかと思うんだけど―によって動く体と発語を分離しなくてはということになったら残念だ。そう思って、山田さんと作業をしてるんだと思う。
◆「ダンス的な」言語との関わり方
山田:そもそも私は、日常で人に話すと決断したものや、舞台で語られることを前提に書かれた台詞と違う、言語性に関心を持っています。今こうしてしゃべっている間にも、頭の隅では物凄い速さで別のことが流れていき、それは口で話しているもっと先のことだったりする。そういった語られない、語り得ないような速度を持った、分裂的な言語が体の中に波打っていて、「ちょっと黙っててよ」と言っても黙ってくれない。それが私にとってすごくダンス的なことなんです。
大学で演劇をやりながら演劇の道に行かなかった理由もそこにあります。同時多発的並行的な言葉の中から「これを言うんだ」と集約できない。しようとすると体が震えたり貧乏揺すりになったりといった方向に身体が作動する。そんな風にして自分の中で封印してしまった自分の中の言語性を、長い年月を経て、今は踊りという仕方で見つけようとしてるんでしょうね。
三浦:そうなるとテクストの選択にも納得がゆきますね。ちょっと微妙なところはあるけれどジュネに、今回はウルフ。僕が今やっているアルトーもそうで、旧来の演劇の定型「~は~である」という表現は絶対に使わない。一つの定義されたことを次の段落どころか同じ行内で「ところで、ところで」って変換してっちゃう。今の話で言えば「ダンス的な文体」ということになると思うんです。そういうテキストには僕も興味がある。新たな舞台に上がるためのテキストなのかなと。その時問題となるのは、一つは自身の関心と一致するテクストとどう距離をとるか。もう一つはそれを口に出して喋る必要がどこにあるのか。ちょっとでも発語するとその世界が瓦解しますからね。
距離のとり方についてはどうなんでしょう。例えば今、稽古でアルトーの言葉しゃべってると、俳優と「頭おかしい人だね」ってなる。どんなに正常に説得力を持ってしゃべっても、言葉自体が「ああ、ふれてるわ。何かがふれちゃってるわ」と。そのときに本気で気がふれて演じるっていうのが、60・70年代のアルトーブームのやり方だったのだろう。では今、アルトーとの距離感をどうやったら示せるかっていうのが、僕の課題なんです。山田さんはどうですか?ウルフの『波』は一般的な言葉を超えていて、ある種思想性がある。それを体はさらに拒否したいはずなのに、体への興味といった点で似ている。その似ている部分にどうやって離反していくのか―離反しなきゃストレートプレイになりますからね。
◆どう距離をとるのか
山田:この作品ではテクストの『波』自体は私が発語するのではなく、この作品のテクスト構成をされた宇野さんの声で録音が流れて来ます。このシーンでは、私は聴くダンスをします。言葉を聴くということでどういうダンスができるのかということをやってみたかったので。
三浦:それはどちらかというと同調していますよね。音楽と同じで。今、距離を置こうとしてるわけではないんですか。
山田:距離を置くっていうことが聴くっていうことなんですよ。
三浦:動かないということ?
山田:ほぼね。宇野さんの朗読の中に圧倒的な声の身体性があるわけですよね。そうしたときに、声と一緒になって動くということはあり得ないだろう。一つの身体というものが舞台上に出てきたときに、それとデュオするっていうことはどういうことなのか。そのデュオの仕方はどう考えるか。じゃあ聴く、っていうダンスをどう踊れるか。単純に動かないってことじゃないやり方を模索中です。
三浦:では喋るテクストは?
山田:ウルフのも入ってくるけど、宇野さんの言葉ですね。ジュネの創作時の最初の「声が出ません」みたいな。それがまたものすごく難しい。
三浦:それは批評的な言葉をしゃべるということですね。編集された。
山田:そうです。
◆なぜ発語するのか
三浦:すると、一人の作家の一元的な言葉を喋ったり、時に録音で流したりといったことをイメージしていたのですが、かなり違いますね。何故喋るのかという問いは、ウルフのような分裂したテクストを敢えて発語するなら、声の力、意味の力で定義されてしまうのをどうするか、ということだったのですが。そのときに何故ダンスはしゃべるんだ、なぜ音楽じゃだめなんだということになる。背景に流れている意味のリズムや雰囲気、録音から流れている声や音楽が従来の舞台での時間の流し方だったはずなのに、なぜダンサーが話し出したのか。例えばピナ・バウシュの場合は、難しいことを言うんじゃなくて、最もわかりやすい言葉でしたよね。コントみたいなことを挟んで、まず音楽に同調するようなことは防いだ。次のステップとして、なぜわざわざ言葉を言わなあかんのかということですよね。そのなぜというところは難しい、僕の課題でもあるんですが。山田さんは、この期に及んでなんで喋るんですか(笑)。
山田:ねえ(笑)。音楽を離れるということと、体をもう一度告発するといったことに関わってくるのかと思います。
とても長く踊って、しかもソロを中心にやってくると、音楽が圧倒的な演出力を持っている。クラシックでもJPOPでも民俗音楽でもね。最近ではそこに対する抵抗から向かったノイズにさえ飽きてきた。音に孕まれるイメージから時間と空間すらも作りだされることでいいのかい、と。10年前、太田省吾さんと呑んでいたときに言われた「ダンスにとって音楽って何だい?」という一言も影響しています。「そうですねえ、音楽で演出してますよね」って、それを自分の課題として受けとってしまったんですよね。それに対してどうしたらいいかわからないという時に、言葉に向かった。それもどのように声が出るのかということに。昔から声を出して踊る稽古はしていました。例えば野菜の名前、都市の名前を言い続けたり、呼吸音を出しながら動くとかね。ただそれは、自分の体を異化していく作業ではあったけど、最終的には自分を追い込むことにはならなくて、楽しんでしまう。
ではなんで追い込まなきゃならないのかというと、身体の知覚が慣れて鈍って来るからなんです。慣れないことをやったときに、自分の知覚の扉を開けるみたいなことがあって、発見がある。その連続で私は踊りつづけてきた。つまり、訓練してダンサーになった人間じゃなく、身体にまつわる自分の興味でなったダンサーだから、興味のポジションがないと踊れない。そういうことだと思います。
今、稽古のぎりぎりの状態で、意味を持った言葉を喋った時のやられ方の凄まじさに手をつけてしまって、「やばいな」と思っています。でも最終的にそこしかなかったという感じもある。私の創作を長く知っている人ほど、「言葉?しかも喋るの?」と抵抗があるようですが、大変ながらも「じゃあやめよう」って気にならない私って何なんだろう。もう一回身体の裂け目みたいなものがあるような気がしているのかもしれませんね。
協力:舞台芸術研究センター
『薔薇色の服で』
日時:2010年10月8日(金)~9日(土)
会場:Studio21
URL:京都芸術劇場
『――ところでアルトーさん、』
日時:2010年11月3日(水)~7日(日)
会場: 京都芸術センター
URL:地点
◆「同調」してしまって「困る」
山田:私は以前から、ダンスに言葉が介入してくることで生じる“晒される身体”といったものに興味を持っていました。そして、舞台芸術の領域で言葉と真直ぐ向き合いながら、その可能性/不可能性を探しているのが三浦さんではないかと思っていた。この3月に地点と仕事をし、その時は共同作業も考えたのですが、三浦さんの演出に出演する形に決めました。
三浦:そこはもめてますけどね。演出、ドラマトゥルク、出演などの領域がボーダレスになることをみな夢見てる。最終的な落としどころは、コラボレーション、それだって誰それの演出という風に、簡単には割り切れない。このジュネの作品は今後も展開してゆくわけですが、山田さんとの作業の途上で、まさにそういう体験をしているのかなと思っています。
山田さんとの作業を通して、僕はダンスって何だっけと考えさせられる。そこが常日頃考えている、演劇って何だっけというところと通じるのかも。現状でそこだけは一致しています。その時、山田さんがおっしゃった「ダンスに言葉が介入する…」というのは、主題としては真剣でもっともらしいんだけど、そう簡単にはいかないという実感です。まず具体的に、今回言葉をどのように使うんですか。
山田:自分で発語する箇所と、言葉が録音で流れている中で踊る箇所があります。目下、声あるいは言葉を身体から剥がす術を探して日々奮闘中です。それは主に自分で話す箇所で、どうしても体と一つになってしまうところがあって、居心地が悪いので。
三浦:自分で喋ると同調してしまうということですね。
山田:そう。踊りの際は知覚が働いていて身体が動くわけですが、そのときに発語と身体の動きがひとつになってしまったら駄目だと。何か知覚の断絶があってしかるべきだと感じるんです。なので、俳優が発語している時、身体と意識の関係がどうなっているのかも気になるのですが、くっついていて違和感がないのでしょうか。
三浦:それは演劇の領域に置き換えると歴史的な問題で、僕には「ストレートプレイになっちゃう、困った」と聞こえる。というのも、リアリズムでもナチュラリズムでもいいのですが、一般的なストレートプレイでは、役と俳優が同調しているように見えれば上手いとされている。そこでは今言われたようなことは全く問題にならないんです。ただし、現代演劇にはベケットという興味深い例があります。『わたしじゃない』など、「喋っているのは私じゃない」と、べらべら喋りながら自身を否定してゆく登場人物しかいない。そのとき身体はどうなっていくのかというと、殺していく、なくしていくんですね。登場人物として目に見えるのは「口」だけで、身体は見ないでくださいとなる。
地点の試みもまた、振返ってみれば、言葉と体というものをベケット的に探求してきたという気がします。その時やっぱり体は動かさず、固定することで殺して、なくしていった。でもなくなるわけがなく、観客には見えている。するとナチュラリズムの演技や日常の動作とは違うところで、俳優が体を扱っているのが微細なレベルで見えるんじゃないだろうか。よく言えばそういうこと。意地悪な言い方をすると幻想、妄想。「動いてないだけじゃん」と。いずれにせよ、地点の安部聡子にはそういう体が染み付いています。
で、山田さんも違う方向からこの問題に取り組んでおられる。自分で喋る箇所では、体はどうされていますか。動く、動かない?
山田:動きます。手が動いて手話的になってしまったりしますね。今回のように特にテクストを用いないときでも、踊っている時は、人には聞こえない言葉を内包して踊っているところが私にはある。それを口に出していない時はまだいいのですが、出した瞬間、言葉の持つ強い力—意味性など―に体のほうがかすめ取られて行く。それが手話に見えてきてしんどいところです。
三浦:説明的になってしまうということ? なら、自分がやってきた手法で考えれば、動かないほうが得です(笑)。勿論、言動不一致に、つまり全く関係ない動きをやるという選択肢はあるけど、「今喋ってるから体は黙ってて」という感覚が自然なのかなと。でもそれだとなかなか先に進めなくなるんですよね。「言葉と身体」とはよく一緒に立てられるモチーフだけど、両者を切り離して考えて、喋ってる時は動かないほうがいい、つまり、喋ってない時に内包された言葉―思考と言っていいかと思うんだけど―によって動く体と発語を分離しなくてはということになったら残念だ。そう思って、山田さんと作業をしてるんだと思う。
◆「ダンス的な」言語との関わり方
山田:そもそも私は、日常で人に話すと決断したものや、舞台で語られることを前提に書かれた台詞と違う、言語性に関心を持っています。今こうしてしゃべっている間にも、頭の隅では物凄い速さで別のことが流れていき、それは口で話しているもっと先のことだったりする。そういった語られない、語り得ないような速度を持った、分裂的な言語が体の中に波打っていて、「ちょっと黙っててよ」と言っても黙ってくれない。それが私にとってすごくダンス的なことなんです。
大学で演劇をやりながら演劇の道に行かなかった理由もそこにあります。同時多発的並行的な言葉の中から「これを言うんだ」と集約できない。しようとすると体が震えたり貧乏揺すりになったりといった方向に身体が作動する。そんな風にして自分の中で封印してしまった自分の中の言語性を、長い年月を経て、今は踊りという仕方で見つけようとしてるんでしょうね。
三浦:そうなるとテクストの選択にも納得がゆきますね。ちょっと微妙なところはあるけれどジュネに、今回はウルフ。僕が今やっているアルトーもそうで、旧来の演劇の定型「~は~である」という表現は絶対に使わない。一つの定義されたことを次の段落どころか同じ行内で「ところで、ところで」って変換してっちゃう。今の話で言えば「ダンス的な文体」ということになると思うんです。そういうテキストには僕も興味がある。新たな舞台に上がるためのテキストなのかなと。その時問題となるのは、一つは自身の関心と一致するテクストとどう距離をとるか。もう一つはそれを口に出して喋る必要がどこにあるのか。ちょっとでも発語するとその世界が瓦解しますからね。
距離のとり方についてはどうなんでしょう。例えば今、稽古でアルトーの言葉しゃべってると、俳優と「頭おかしい人だね」ってなる。どんなに正常に説得力を持ってしゃべっても、言葉自体が「ああ、ふれてるわ。何かがふれちゃってるわ」と。そのときに本気で気がふれて演じるっていうのが、60・70年代のアルトーブームのやり方だったのだろう。では今、アルトーとの距離感をどうやったら示せるかっていうのが、僕の課題なんです。山田さんはどうですか?ウルフの『波』は一般的な言葉を超えていて、ある種思想性がある。それを体はさらに拒否したいはずなのに、体への興味といった点で似ている。その似ている部分にどうやって離反していくのか―離反しなきゃストレートプレイになりますからね。
◆どう距離をとるのか
山田:この作品ではテクストの『波』自体は私が発語するのではなく、この作品のテクスト構成をされた宇野さんの声で録音が流れて来ます。このシーンでは、私は聴くダンスをします。言葉を聴くということでどういうダンスができるのかということをやってみたかったので。
三浦:それはどちらかというと同調していますよね。音楽と同じで。今、距離を置こうとしてるわけではないんですか。
山田:距離を置くっていうことが聴くっていうことなんですよ。
三浦:動かないということ?
山田:ほぼね。宇野さんの朗読の中に圧倒的な声の身体性があるわけですよね。そうしたときに、声と一緒になって動くということはあり得ないだろう。一つの身体というものが舞台上に出てきたときに、それとデュオするっていうことはどういうことなのか。そのデュオの仕方はどう考えるか。じゃあ聴く、っていうダンスをどう踊れるか。単純に動かないってことじゃないやり方を模索中です。
三浦:では喋るテクストは?
山田:ウルフのも入ってくるけど、宇野さんの言葉ですね。ジュネの創作時の最初の「声が出ません」みたいな。それがまたものすごく難しい。
三浦:それは批評的な言葉をしゃべるということですね。編集された。
山田:そうです。
◆なぜ発語するのか
三浦:すると、一人の作家の一元的な言葉を喋ったり、時に録音で流したりといったことをイメージしていたのですが、かなり違いますね。何故喋るのかという問いは、ウルフのような分裂したテクストを敢えて発語するなら、声の力、意味の力で定義されてしまうのをどうするか、ということだったのですが。そのときに何故ダンスはしゃべるんだ、なぜ音楽じゃだめなんだということになる。背景に流れている意味のリズムや雰囲気、録音から流れている声や音楽が従来の舞台での時間の流し方だったはずなのに、なぜダンサーが話し出したのか。例えばピナ・バウシュの場合は、難しいことを言うんじゃなくて、最もわかりやすい言葉でしたよね。コントみたいなことを挟んで、まず音楽に同調するようなことは防いだ。次のステップとして、なぜわざわざ言葉を言わなあかんのかということですよね。そのなぜというところは難しい、僕の課題でもあるんですが。山田さんは、この期に及んでなんで喋るんですか(笑)。
山田:ねえ(笑)。音楽を離れるということと、体をもう一度告発するといったことに関わってくるのかと思います。
とても長く踊って、しかもソロを中心にやってくると、音楽が圧倒的な演出力を持っている。クラシックでもJPOPでも民俗音楽でもね。最近ではそこに対する抵抗から向かったノイズにさえ飽きてきた。音に孕まれるイメージから時間と空間すらも作りだされることでいいのかい、と。10年前、太田省吾さんと呑んでいたときに言われた「ダンスにとって音楽って何だい?」という一言も影響しています。「そうですねえ、音楽で演出してますよね」って、それを自分の課題として受けとってしまったんですよね。それに対してどうしたらいいかわからないという時に、言葉に向かった。それもどのように声が出るのかということに。昔から声を出して踊る稽古はしていました。例えば野菜の名前、都市の名前を言い続けたり、呼吸音を出しながら動くとかね。ただそれは、自分の体を異化していく作業ではあったけど、最終的には自分を追い込むことにはならなくて、楽しんでしまう。
ではなんで追い込まなきゃならないのかというと、身体の知覚が慣れて鈍って来るからなんです。慣れないことをやったときに、自分の知覚の扉を開けるみたいなことがあって、発見がある。その連続で私は踊りつづけてきた。つまり、訓練してダンサーになった人間じゃなく、身体にまつわる自分の興味でなったダンサーだから、興味のポジションがないと踊れない。そういうことだと思います。
今、稽古のぎりぎりの状態で、意味を持った言葉を喋った時のやられ方の凄まじさに手をつけてしまって、「やばいな」と思っています。でも最終的にそこしかなかったという感じもある。私の創作を長く知っている人ほど、「言葉?しかも喋るの?」と抵抗があるようですが、大変ながらも「じゃあやめよう」って気にならない私って何なんだろう。もう一回身体の裂け目みたいなものがあるような気がしているのかもしれませんね。
(2010年9月28日)
山田せつ子(やまだ・せつこ)
明治大學演劇学科在学中、笠井叡の主宰する舞踏研究所「天使館」に入館。独立後ソロダンスを中心に独自のダンスの世界を展開し、国内外での公演も多数行い、日本のコンテンポラリーダンスのさきがけとなる。89年よりダンスカンパニー枇杷系を主宰、『翔ぶ娘』『愛情十八番』などの作品を発表。00年より京都造形芸術大学映像・舞台学科教授として8年間ダンスの授業を持ち09年より客員教授。最近の作品『奇妙な孤独』『ふたり いて』など。ダンス・演劇などのジャンルを超えて新しい作品創りを始めている。著書『速度ノ花』(五柳書院)
三浦基(みうら・もとい)
演出家。劇団「地点」代表。2006年、『るつぼ』(作:A・ミラー)にてカイロ国際実験演劇祭ベストセノグラフィー賞受賞。2007年、『桜の園』(作:A・チェーホフ)にて文化庁芸術祭新人賞受賞。著書に『おもしろければOKか?現代演劇考』(五柳書院)。
今秋、新作『――ところでアルトーさん、』を京都・東京で上演予定。詳細は地点webにて。
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