interview

2010.07.02-03 ボヴェ太郎×志賀玲子『消息の風景―能《杜若》―』ダイアローグ

2010年06月8日

協力:アイホール
photo: SHIMIZU Toshihiro


アイホールのTake a chance project 024、3作目となるボヴェ太郎。能楽堂での公演などを経て、近年、能への関心を強めている彼が、7名の能楽師を共演に迎えて、能の名作《杜若》に挑みます。能のどこに惹かれ、今回どのようなアプローチを試みるのか? ダンスのプロデューサーを経た視点で、能とボヴェの舞踊の親近性を見抜き、今回監修を務める志賀玲子×ボヴェ太郎の対談をお楽しみください。

日時:7月2日(金)19:30
   7月3日(土)15:00
会場:アイホール
URL:http://www.aihall.com/event/201007.html

構成・振付・出演=ボヴェ太郎
能楽囃子|笛=杉信太朗、小鼓=曽和尚靖、大鼓=谷口有辞、太鼓=前川光範
地謡|吉浪壽晃、浦部幸裕、田茂井廣道



志賀:take a chaceは3回目となりますね。今回はどのような挑戦になるのでしょう。

ボヴェ:まず、今回の作品についてお話する前に、この文章を読んで下さる方の為に、私の創作スタンスを少しお話しさせて頂きたいと思います。私は、空間と身体の呼応によって生成される“場”の可能性を、舞踊を通して模索しています。空間を知覚して、そこにある関係性の中から動きが生まれるように舞台を作っているのですが、このようなプロセスによる舞台作りを始める以前は、いわゆるダンスの形式にのっとって、カウントで身体の振付を作り、空間にあてはめてゆくような方法で作品を制作していました。けれども、いろいろな場所で踊ってゆく中で、同じ作品なのにも関わらず、場所によって踊りの質が全く変わってしまう、という経験を何度もしました。身体のムーブメントの軌跡は同じなのに、生まれてくる質感はなぜ違うのかと、一時期悩んだこともありました。そうした体験から、身体の側から動きを構築してゆくのではなく“空間によって動きの質感が変わる”という現象を基点に、身体を見つめてみようと思うようになりました。空間の明るさや色彩、天井の高さ、お客様との距離、音の響き、そういった自分を取り巻く外的要素を身体がどのように知覚し、反応してゆくのか。その関係性を探ってゆく作業を10年程前から続けています。基本的にはインプロヴィゼーション(即興)の要素が強くなるのですが、こういう空間であればこういう動きが生まれやすい、という情報は蓄積されてゆきますので、公演ごとに、より豊かで説得力のある舞踊が立ち上がるよう、上演空間に応じた“場”のしつらえを心がけています。

implication01_re
Take a chance projectの1年目には『implication』という作品を上演しました。この作品では、まずアイホールという空間を見て、空間のしつらえから考えてゆきました。当時は言語的な意味性からなるべく離れた次元で、身体と空間の関係性を探ってゆきたいという思いが強かったですので、音楽も感情をなぞるようなものではなく、バロック音楽と現代音楽を用い、ミニマルな空間のうつろいの中から生まれる舞踊の可能性を探ってゆく作品となりました。(※詳しくは、Taro BOVE Official Web Site『implication』Dialogueをご参照下さい。)

texture01_re
2年目に上演しました『Texture Regained-記憶の肌理-』では、前作とは逆に、言葉によって想起される質感と身体の関係性へと関心が移り、プルーストの『失われた時を求めて』を、女優の渋谷はるかさん(文学座)に読んで頂き、言葉によって立ち上がる空間の中で踊りました。音楽は一切使わず、空間の視覚的な変容も最小限に抑えて、言葉との関わりの中から生まれる“場”の可能性に集中しました。その中で、言葉の持つ“意味”から分泌されるニュアンスの力と共に、発話するときの声の志向性、響き、間合いといった、語られる言葉の持つ“声の肌理”が、身体にもたらす豊かなニュアンスと、その影響力に気づかされました。(※詳しくは、Taro BOVE Official Web Site『Texture Regained-記憶の肌理-』Dialogueをご参照下さい。)
 今回はアイホールでのこれまでの上演経験を踏まえて、能の古典曲《杜若》に挑みます。7名の能楽師の方々を共演に迎え、能楽との呼応によって立ち上がる新たな“場”の可能性を探る試みとなります。この作品は、1000年以上前に書かれた王朝文学『伊勢物語』を典拠に、今から600年ほど前に作られた夢幻能の名作です。自然の情景と結びつく美しい大和言葉による詞章と、洗練された音楽によって、感覚の豊かな拡がりを喚起させられる、素晴らしい作品です。

志賀:能楽堂で公演された経験がおありですよね。そういった関心の延長に、本作の挑戦はあるのでしょうか。

ボヴェ:最初にアイホールとの打ち合せの段階で、能の四拍子(笛、小鼓、大鼓、太鼓)、いわゆるお囃子と共演してはどうか、というご提案をいただきました。ただその時は、私は能のお囃子はとても好きですけれども、自分の作品として舞台にかけるのは難しいと感じていました。と言いますのも、私の舞踊はカウントに基づくリズムではなく、むしろ横の流れ、メロディーとの協和と言いますか、ポリフォニックな関わり方なのですね。非常にテンションの高いリズム音楽である四拍子だけで踊るのは、なかなか難しいのではないかと思いました。さらに1時間のお囃子の作品というものは存在しませんので、1時間なりの作品を作るとなると、異なる音楽と組み合わせるなどして、ドラマトゥルギーを成り立たせる必要がある。私の舞踊は始めにお話したように、芭蕉の「杜若われに発句のおもひあり」ではないですが、「われに舞踊の思いあり」と感じさせてくれる対象との出会いから“おのずから”生まれてくる要素を大切にしています。古典を恣意的に解体して、自分の表現に組み込み利用したい、という欲求はあまり起きませんので、どうしたらよいかと。そこで考えたのですが、もし能楽とご一緒させていただけるのならば、詞章の入った能の枠組みの基本を壊さずに、囃子と謡が合わさった一つの能作品の中で舞ってみたいと、提案をし直したのですね。能の構造の中に自分の身体が入っていったときに、どういうものが生まれるのか、そういうスタンスで取り組んでみたいと。もちろん細かなところは丁寧に調整してゆく必要はありますが、基本的には能の世界に自分が出会ってゆくという姿勢です。

志賀:私がボヴェさんに能が合うんじゃないかと思うのは、私自身が最近能を集中的に観るようになって気づいたことが関係しています。私はダンスの仕事をしながら、古典芸能をそれなりに気にしてはきましたが、本腰を入れて観ていたわけではなかった。それが2年前にダンスの仕事から少し距離をとることになり、その頃、ふと能の小鼓を習い始め、集中して能を観るようになりました。それまでは「能」というかたまりで観ていたので、深く入っていくとっかかりが掴めず、ダンスを観るのと同じようにシテの在り様だけを観ていたのだと思います。それが、小鼓を習い始めたことで囃子を取っかかりに、謡と囃子の関係、地謡とシテの関係など構造的なことが見えてきて。そこからは年間100本以上、つまりダンスと同じように集中的に観ていき、その中で見えて来たことがありました。
 一つは能の上演空間のことです。能は三間四方の正方形の舞台と空間が規定されていますが、これは大発明だと思うようになりました。正方形の舞台の2面が客席に開かれていて、その中央に柱があるといった空間の取り方。舞台と客席が単純な対面構造でなく、間口が長方形に広いわけでもなく、舞台を立体的に観ることができる。どの時代にこの形式が定着したのか知りませんがその抽象性に目を開かれました。そしてそこに、正面から見て右に地謡が8名から10名くらいいて、それと90度の角度、つまり正面奥に四拍子がいて、能の枠組みを作っている。つまり、三間四方の空間に地謡と囃子方がいて、その人たちによって作られた「磁場」にシテが立ってゆくという構造になっています。このことの凄さを知識としてではなく、実感させられたことがありました。それは素人の私が観ても大変ひどい能で(笑)、囃子方は第一線のプロだけど、地謡とシテは?の人たちだったのですが、地謡が崩れているので、シテが立つための磁場が成立せず、能が成立しない、立ちあがって来ない。能の善し悪しをシテの善し悪しだと思っていたけれど、どうもそれだけではないのだということに気づいたわけです。逆もあって、素人の発表会では、シテ以外はプロなので、それなりに観ていることができるわけです。このことから、地謡と囃子の創る能の磁場に、抽象度の高いダンスの人が立つと面白いことが起きるのではないかと思い至ったんですね。
 もう一つは能の即興性についてです。能は決め事や約束事の多いものだと思っていたのですが、非常に厳密なルールを持ちながら、全員が毎回、即興をしているようなものなのだということが次第にわかってきて、驚かされました。各パートが個別に稽古して、全員合わせての「申し合わせ」と呼ばれるリハーサルはたった1回。それも戦後のことだそうで、それ以前は、全くリハーサルなしの個別稽古だけで本番を迎えるということを、敢えてやってきたわけです。演出家がいないので、シテが作品の方向性を決めてゆくわけですが、シテの動き方に囃子方や地謡が応じていくという関係は、極めて即興的です。なので、厳しく即興をやっているダンスの人にとっては、この能の構造にのってゆくということは可能であろうし、むしろ、フリーな即興セッションよりも、より厳しい勝負という意味で面白いんじゃないかと思い始めました。そして、この能の構造の中に、ボヴェさんの立っている姿が、私の妄想の中で強く立ち上がって来たわけなんです。

余白の辺縁写真小
ボヴェ:即興性を重視した関係の中から立ち上がる要素を大切にしているという点に、私も強い魅力を感じて来ました。一見すると不安定な構造ですが、凄い事が起こるしつらえになっていますよね。子供の頃に能を観たとき、衝撃を受けたことを今でも覚えています。最初は、シテとワキ、囃子と地謡の対話によって物語は進行して行く。やがて散文調の問答から、韻文調の謡へと移行し、徐々に抽象性が強まってゆく、そして「序乃舞」が舞われ始めたとき、物語の世界は背後に退いて、物語と演者と舞台をまなざす私との間に充実した空白が生まれるのを感じました。それはどの時間、どの空間とも言い表せない、非常に抽象的な距離感を伴った余白だったのですが、その時私の中で、さまざまな方向に触手をのばしてゆく、豊かな感覚の拡がりを体感しました。その後も能を観てゆく中で、幾度かこのような幸せな“場”に居合わす経験をしました。観客として感じてきたこの充実した空白、これは一体何なのかと考えてゆくうちに、「能舞台に立って内側から体感してみたい」という思いを抱くようになりました。そして2007年に、東京渋谷にあります、セルリアンタワー能楽堂に直接お話をして、機会をいただき『余白の辺縁』という作品を上演しました。そのときは、能楽堂の空間性を内側からまなざす試みを考えていましたので、音楽は能楽ではなく現代音楽を用いて、これまで劇場で上演してきたような私の舞台を、能楽堂で行ったらどうなるかという挑戦となりました。実際に能舞台に立ってみて、本当に不思議で面白い空間感覚を経験することが出来ました。橋掛りから出てゆくと、お客様に開かれた空間が広がっている。

志賀:正面から右半分は抜けているけれど、左手から後ろは詰まっている。

ボヴェ:本舞台に上がって感じたのですが、空間が動いて静止することがないのですね。身体の向きを少し変えただけで、知覚する風景はがらりと変わります。動きの力線の方向性、お客様から向かってくる志向性、エネルギーの角度までが全く変わってきます。これは面白いと思いました。舞台上を微かに移動するたびに新たな力学的な発見がある。ただ、バランスの微妙な違和感は拭えませんでした。それはやはり地謡と四拍子がいないということなのですね。

志賀:先に言ったようなバランスで成立している空間に、その必須要素抜きで立っている。浮遊する感じは想像できますね。

ボヴェ:取りつく島は松だけ(笑)。

志賀:それも壁に書いてあるだけだし(笑)。

ボヴェ:その経験を踏まえて、再び集中して能を見るようになりました。その中であらためて気づいたのは、能楽堂はあのように独特な形態をしていますが、四方を囲まれているということ。本舞台の正面と下手にお客様がいて、上手に地謡、後方に四拍子が構えている。

志賀:エネルギーが四方から中央に向かってやってくる。

ボヴェ:そうなのです。エネルギーの力点が中央に集中してくる。本舞台に立ってみて、「ああ、これなのだな」と思いました。しかもそのエネルギーの方向性は絶えず変化しています。ただお客様がいるというエネルギーがボテッとあるわけではなくて、お客様の志向性が舞台へ出る前から満ちていて、出て行くさなかにも、さざ波のように変化してゆく。非常に繊細な関係性の中で、皆が出会い、その場を立ち上げてゆくところが面白い。ライブで行なわれるどんな舞台も、その点は共通しているとは思うのですが、能は異質な印象があるのですよね。例えば歌舞伎などは、錦絵のように出来上がった空間をお客様に見せますよね。出演者みんなで稽古をして、囃子も大勢のユニゾンをバシッと決めて来る。舞台から一方的にエネルギーを与えてくれるので、安心して見ていられます。けれども能は、こちらからエネルギーを投げかけないと、何も見えてこない。舞台との関係性に引きずり込まれて行くような感じがあって、それが面白い。ただ、見る側も物凄く体力を使いますよね。つまり圧力の関係性のようなものがあって、向こうが強くなったらこちらも強く押してバランスをとる。エネルギーをスッと引いたりもしますから、見る側もその都度、感覚のチューニングチェンジを求められます。そういう関係性の中で、簡素でありながら複雑な“場”が刻々と立ち上がってくる。そこには即興性というものが大きく関わっていると思うのですが、成り立たない時は全然よろしくないのですよね。私も能を見ていて「今日はちょっと観られない」となる時がある。普通の舞台でしたら意識を引いて遠巻きから見たりすることもできますが、能はそれができない。

志賀:居場所がなくなりますよね。

ボヴェ:ええ。それはどういうことなのかと、不思議に思っていたのですけれども、恐らく能は、あえてアンバランスな状態にしているのだと思うのですよ。音も演技も全部が支えあって、初めて立ち上がる舞台の強度みたいなところを求めている。いつも同じにならないように…、

志賀:合わせて稽古もしないとかね。

ボヴェ:そうですね。音の入れ方なども、敢えてはずしてゆく。相手がどう出てくるかを見はからいながら仕掛けてゆく感じがあり、そのアタックは非常に強いですよね。それが丁々発止で成り立つときには奇跡的なクオリティーに達するのだけれども、成り立たないときはエネルギーがあらぬ方向へ行き違って、観る側はまるで船酔いしている時のように、バランスを欠いて気持悪くなってくる。しかし、安易なところで結びつかないように、あえてそういう厳しい条件に皆が身を置いて、一期一会の関係性の中から豊かな時間と空間が生まれるチャンスに賭けているのではないでしょうか。やはり武家文化なのだなと思いますね。シテ方と囃子方との間には剣道の立会いを思わせる緊張感を感じます。良い交感が生まれた瞬間には、物凄く幸せな、充実したエネルギーがバッと立ち上がる。しかし、古典の能ですら成り立たないものを何本も見てきましたので、それがいかに大変なことかと感じている中で、そこに進んで身を置いてみようというのですから、なかなかクレイジーな企画ですよね(笑)。しかし、自分がこれまで行ってきた創作のスタンスに、通じる点ですので、とても楽しみにしています。

志賀:音楽的にはどうですか。音楽をやっている弟に、小鼓の役目は何かと訊ねられて、質問の意味がわからなかったことがあるんですよ。西洋音楽では打楽器には打楽器の役割がある。ところが能の四拍子は、笛以外はすべて打楽器。で、しかも笛もメロディーラインを担っているわけではなく、打楽器的な切り込み、打ち込んでゆくような役割ですよね。メロディーに類するものは楽器ではなく謡が担っている。西洋音楽のあり方とだいぶ違う気がします。

ボヴェ:違いますね。音階が存在しませんし。

志賀:能が成立した時代でも琴や琵琶など雄弁な弦楽器があった中で、敢えてそうではない楽器を選んだのは面白いと思います。ボヴェさんのこれまでの作品と音楽の関係に照らすと、最初に「囃子だけは難しい」っておっしゃっていたのも当然ですよね。

ボヴェ:笛(能管)も竜笛とほとんど構造が同じですけれども、中に「ノド」と呼ばれる竹管が入っていて。

志賀:わざわざ「SMAP中居君にしている」(笑)。ってこれ、今回の笛の杉さんのトークのネタですが。

ボヴェ:音痴にしている(笑)。音楽的にはすごい冒険ですよね。でもだからこそ、打楽器である小鼓や大鼓、太鼓との絶妙な調和が生まれるのでしょうね。私は凄く好きですよ、能管の音。今回の上演作品にも据えられている「序乃舞」ですとか、ああいったリズムのほうに入ってくると、また違った趣で。

志賀:ゆるやかですよね。

ボヴェ:それでも、やはりリズムなのですよね。

志賀:だから囃子が入らない素謡とボヴェさんのダンスというほうが、想像はつきやすいですよね。だからこそ、これまでのボヴェさんの流線的な動きに、能囃子が打ち込まれてゆくことでどういう変化が起こるのか、とても興味があります。

kodutsumi_re
ボヴェ:私の感覚では、打楽器のニュアンスは、水面に雨だれがポタンッと落ちてフワッと広がってゆく、その感じなのですよ。波紋がメロディーで打楽器はそこにポタンッと入ってくる水滴。自分の体感のリズムの中に、別のリズムが打ち込まれて来る感じは心地良い部分もあります。しかし、それだけと言うのはなかなかしんどいのですよ。どんどん打ち込んでゆくものは、それはそれで面白いのですけれども・・・。何度かガムランと共演させていただきましたが、ガムランも一応音階はあるのですが、あえて崩されていて、ものすごい音の打ち込みなのですね。リズムの堆積の中からモワレ状にメロディーのような、何とも言えない音の層が立ち上がって来る。

志賀:わかります。バリ島で「静かな朝」っていうタイトルのCDを買ったんですけれど。

ボヴェ:静かじゃないでしょう(笑)。

志賀:家に帰って聞いたら案の定(笑)。「どうしてこれが“静か”なんだろう?」って。ただ聞いていくと、森の中で様々な音がある状態にも似て、トータルには音があまりにも多様で多量であるがゆえに、その上に静かなものがふわっと立ち現われるような感じがして、「そういうことなのかな」って。ちょっと不思議な体験をしたことがあります。

ボヴェ:ホワイトアウトですよね。ガムランは音を幾重にも重ねてゆく事で静寂が生まれる。能のアプローチは全く違いますが、趣の異なる静寂の感覚が生まれて来ますよね。能は音数の少ない、削ぎ落とされた打ち込みの先に静寂を感じさせる。

志賀:小鼓を習っていて面白いなと思うのは、音をたくさん速く打つフレーズよりも、間合いのゆったりしたフレーズ、ゆっくりとした曲のほうがむずかしいということです。最初は覚えて打つのに必死ですからなんでもむずかしいわけですけど、少し慣れてくると、手数の少ないフレーズのほうが、どうしていたらよいかわからなくて、待っちゃうので間(ま)がもたないんですよ。私の体の中に、まだ能の時間の流れ方、その間が入っていないのでしょう。一つポンと打って、その次打つまでの間合い―、あれは待ってるんじゃなくて、体の中に水滴が落ちて波紋がひろがっている時間があってこそ成立しているのかなと思っています。

ボヴェ:そこですよね。私も踊っていて重要に感じるのは、どう動くかではなくて、動きと動きの間(ま)ですね。

志賀:それが“動き”なんですね。

ボヴェ:そう思います。例えば「振り向いて止まってそこから手が上がってくる」と言い表せるような動きがあるとしますよね。それは「振り向いた、ワン、ツー、ハイッ、手をあげる」ということではなくて、振り向く前から手の上がる流れは既に始まっているのですね。

志賀:全部が重なって、重なって、どこかからすでに始まっているということの繰り返し。

ボヴェ:私にとっての手の上がる瞬間が、鼓の「ポン」なのでしょうね。でもそれは「ポン」と打つ前からもうすでに始まっている。

志賀:だからここで手を下げて準備する印とかが譜についているんだけど、そこで下げようと思っているともう遅れる(笑)。じゃあ、どこで下げるのかというところは、デジタルには語れない。あの感じは、体に間合いが入ってくるということがないと、ゆっくりなだけに実現できない。

ボヴェ:速いものも同じだと思うのですが、速さから生まれるエネルギーの流れに体が気を取られてしまい、そこに気づきにくいですよね。

志賀:やった気になりますものね。

ボヴェ:舞踊もそうですよね。最初はエネルギーでどんどん踊る。私も昔はそうでしたよ、とりあえず沢山回って(笑)。しかし、いわゆる間(ま)と呼ばれているものはすごく面白いですよね。私はヨーロッパでもいろいろな舞台を観ましたけれど、向こうは動くことが主眼であって、動きの無い部分は、間(ま)ではなくてブレイクなのですよね。脱力するリリースであったり。見せ方の技術として、動の部分を際立たせる為に挿入されている。それに対して、日本といいますか東洋は独特ですね。日本の文化は、よく言われることですが、余白が命ですよね。音楽も美術もコンポジションされている要素の《あいだ》に、実は一番充実したエネルギー、集中力が濃縮される。その《あわい》から不図、動きが出てくる。テンションの発現、持続、集中、堆積、開放。その流れは自分の中だけではなく“場”を形成している空間との関係性に方向づけられていると思うのですよ。空間の中に響き合う密度のうつろいの中で、エネルギーは充ちてゆき、その充実を感じる中から、おのずと「ポン」が出てくる。

志賀:私も最初は、能囃子は打楽器でがんがん切ってくる感じがあるから、ボヴェさんの流麗な動きとはどうかなとは思いましたが、ただ、その、間っていうことに思いが至った時に、音のほうで踊っていくんじゃなくて、間で踊ってゆく感じはいいなと。

ボヴェ:私もそう思いました。それまでは、自分が踊っていることもあり、やはりシテを中心に能を見ていたのですね。シテと言葉の関係性があって、絶妙なタイミングで四拍子が入ってくる、という印象。ただお話をいただいてから、あらためて四拍子を中心に舞台を観ていったときに、おっしゃられたように、間(ま)がもたらす充実した余白が見えてきた。そことの関わりであれば、私も一緒に立てそうな気がしてきました。

志賀:してきましたか(笑)。私が最近、ダンスをだんだん観なくなってきていて、その分、能を観ているのは、今のコンテンポラリーダンスが失っていっている、演じ手の身体やエゴの在り様、空間や観客との緊張感のつくり方なんかが能の中にあると感じるからなんです。ですから、ダンスはよく観るけど能を観たことがない人にこの公演を観てほしい。あとは、能は観るけどダンスは観ない人にも観てほしい。大学の能楽部って、おそらくダンス部よりも数が多くて、それだけの若い人が能に関心があるのかと驚きますが、能楽堂には年配の人ばかりですし…。能のすごさみたいなものを、ボヴェさんのような異質な人が入ってくる場で新しく発見することができるとおもしろいですね。いわゆる“古典趣味”の「古典と現代の融合」みたいなクサいことではなく、表現と表現のぶつかりあいということで楽しみにしています。

ボヴェ:いわゆる「古典と現代の融合」というような試みは連綿となされていて、素晴らしい作品にも私も何度か出会いましたが、多くは表層的なイメージの組み合わせに、とどまっているように感じられますね。

志賀:日本人である私たちが、自分たちの古典を扱うときに、エキゾチシズムに陥ってしまっている。ただ見慣れぬもの、目新しいものとして、それはそれで楽しいものかも知れませんけれど、もっと本質的なことが必要かなと思います。

ボヴェ:イメージに擦り寄るのではなく、お互いがお互いの仕事において大切にしていることを尊重しあって、その上で響き合うことが出来たら幸せですね。相手の世界に対して敬意をもって出会えたときには、自分の取り組みについてあらためて発見させられることも多いですし、相手のことも見えてくる。勿論お客様との関係においても、同じことが言えると思います。そういう思いを大切にしながら、静かな気持で舞台に臨みたいと考えています。

志賀:アイホールの中に、どんな舞台空間が設えられるのかも、一つの見どころですね。お誘いあわせの上、ぜひお越しください。お見逃しなく!

(5月21日@セカンドハウス)


ボヴェ 太郎(ボヴェ・タロウ) http://tarobove.com
舞踊家・振付家。81年生まれ。02-03年渡欧、インプロヴィゼーションテクニック等を学ぶ。“空間の〈ゆらぎ〉を知覚し、変容してゆく「聴く」身体”をコンセプトに創作を行なう。主な作品に『不在の痕跡』、『implication』、『Texture Regained -記憶の肌理-』等。劇場作品の他、『余白の辺縁』(セルリアンタワー能楽堂)、『in statunascendi』(世田谷美術館)、「カンディンスキー展」(京都国立近代美術館)における公演、『陰翳-おもかげのうつろい-』(国指定重要文化財・旧岡田家住宅)、西ジャワの古典歌曲トゥンバン・スンダとの共演(愛知芸術文化センター)、ルイ・ヴィトンとの共同制作による映像ダンス作品、等がある。


志賀玲子(しが・れいこ)
舞台芸術プロデューサー。
ボヴェ太郎舞踊公演『消息の風景―能《杜若》―』監修。長年、現代ダンスの企画制作に従事してきたが、能囃子小鼓の稽古を1年半前から始め、能にはまる。ボヴェ氏と、近年、能楽堂外での活動に意欲をしめす若き小鼓の師匠/曽和尚靖氏の出会いをコーディネイト。京都能楽界囃子方のもっともイケてる四拍子と優美なボヴェ太郎氏の共演に微協力。
2005~09年度大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任教授。90~07年度伊丹市立演劇ホール(アイホール)プロデューサー。00~07年びわ湖ホール夏のフェスティバル プログラムディレクター。03~05年度京都造形芸術大学舞台芸術研究センタープロデューサー。他、財団法人地域創造「公共ホール現代ダンス活性化事業」コーディネーター、岩下徹制作、等。05年6月より神経難病ALS発病の友人の支援開始。京都/西陣で織屋建の町家を改造しダンスの稽古場を併設した空間で、24時間他人介護による独居生活<ALS-Dプロジェクト>をコーディネイト。ホームヘルパー2級。




Translate »