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相模友士郎×西岡樹里 アフター・アフター・ダイアローグ『天使論』の先へ
2013年05月18日
はからずも、「アフター・ダイアローグ」の後も対話は転がり続けました。『天使論』の再演を挟んで終わりをめざすともなく続いたメールの往復を、書簡形式でお届けします。
前回、「we dance」で「ダンサーとダンス作品をつくる」という枠組みにあった『先制のイメージ』に対し、演劇・ダンスではなく「舞台」に立つからだとそこに向けられる視線をめぐる、アクチュアルなお話が展開されています。
前のお話、つまり「アフター」が一つのダイアローグをまだお読みでない方は、コチラからどうぞ>>>
「ダンサーとして、日常の行動がダンス(?)になるその瞬間がどこにあるのかは気になることの一つです。それが、相模さんとダンサーの間で一致しているのか、ずれているのか。それを毎回同じ瞬間に感じるのか。
また、ダンスでは無い何か別の状態へ向おうとしていらっしゃったのかな、と感じたので、その辺のお話などを聞かせてもらえたらいいなと思っています。」
一つ目のご質問に回答すると、実は「日常の行動がダンス」になるということは『先制のイメージ』『天使論』初演では明言していません。
しかも指示の内容も「踊る」という言葉を一切使わずに進行しています(『先制のイメージ』では一回「踊る」と、ぽろっと言ってしまって「しまった!」と思いました)。ダンサーの◯◯さんです。という紹介はしましたが、そこで進行しながら指示してる内容と目的は、必ずしも振付けのようにして“ダンス”を創ろうというものではありません。
つまり対談でお話しした「対話としてのダンス」というのは、舞台上で踊っている(今回でいうと動いている)からだというよりはむしろ、そこで見えているもの/見えていないもの/見ようとしているものといった可視と不可視の間を僕の言葉とダンサーの体とを指針に時には結び、時には結ばれない観客のまなざしとの共同作業。その関係体そのもののことのような気がしています。
「ダンスでは無い何か別の状態へ向おうとしていたのか」という点については、ダンサーへの体のアプローチとしては、先日お話しした《能動的受動体》とでもいうべき体の有り様があると思います。もうすこしラフに言うなら《穴》のような身体の状態を指向していたのです。
《穴》とはこちらとあちらを繋げるものでもあるし、同時に境界でもある。また、輪郭は明確にありながらも実体は不在、欠落を示しており、不在の存在としてしか《穴》足り得ない。
そのような両義性を孕んだ《と》(ここ「と」そこ)としての身体を指向していた訳ですが、それは《能動的受動体》である以上、こちらから(舞台上で踊る/演じるからだ)は自ら語りださない。モノローグにはなりえない。
「私が語る」ということを拒否した以上、どのように見る人とコミュニケーションを取ろうかと考えた時に、能で言う《ワキ》がいる。ということで、今回のような形式が自然と選びとられていったのです(ちなみに『DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー』では自ら動き出さない俳優をお年寄りが動かす、ということをやっていましたし、『中平卓馬/見続ける涯に火が・・・』ではリーディングだったのですが、本を読む(能動的なテキストへのアクセス)という代わりにipodに吹き込んだテキストを俳優が聞きながらそのまま声に出す。ということをしていました。それらも今回の僕の《ワキ》的な役割を持っていたと思います)。それと同時に僕が《ワキ》として語ることで僕がこういう体をとりあえず工作しようとしている。という僕自身のダンサーの体のみかた、指示の仕方をそのまま見せてしまうことで、見ている観客のまなざしをも振り付けられるんじゃないかという意図も同時にあったと思います。
また、写真家の中平卓馬はこのように書いています。
「対話。受容的であること。不断に自己を超え出ること。これらはひとつのものである。受容的であるためには対話は不可欠のものである。そして対話とは私から他者へ、他者から私への往環を、保証するものである。私と他者との対話、私と世界との対話、そのせめぎ合いの中で「私」は関係としていま、ここに、在る。(個の解体・個性の超克)『見続ける涯に火が… 批評集成1965-1977』所収」
この中平卓馬の言葉を道しるべにしながら「対話としてのダンス」を模索してみようという舵取りをした部分も大いにあると思います。
《穴》っておもしろいですね。何かを結んだり通過させたり、周りによって存在できる実態の無い、でも確実に存在するものですね。観客の前に現れる相模さんの言葉と観客を交換・往復する何かが通過する、目に見えないはずのその間が身体によって模られていて、身体を見ているのか通過する何かを見ているのか、それが見えないはずの《穴》なのか、判断が錯覚を起こしたように私は感じて、とても面白いなと思いました。
そして、相模さん自身のダンサーの身体の見かた、指示の仕方を観客も共有して見つめている状況が、(「すごいダンスin府庁」を見るまでは)理科の実験みたいにも感じました。相模さんが提示する「こう見える」を観客も一緒に、もしくは追いかけるように体験して、「こう見える」かどうかを確認する。見ている人が目の前で何が起こってるのかに対する正解を重ねながら作品を見ていくことは、私が演劇を見る体験に近いようにも感じました。ダンスでは観客の自由な想像力に期待する部分があったりすることもあります。ですが物語のある演劇では、途中観客が個々に自由な解釈をすると、それ以降物語がわからなくなってしまう。だから、ある程度の人が同じ受け取り方、見え方をしている事が意識されて進めていく。こういったことがこの作品でも行われているので、演劇みたいだなと感じたのだと思います。
また、私はその間として起用したダンサー(身体)のことにも興味がひかれました。
この作品は、特別性別が関係するものではないですが、『先制のイメージ』に比べて『天使論』は、ダンサーが女性であるという印象(ダンサーの女性っぽさ?)をうけました。ダンサーの個性や、その人の背景が関係している事なのかなとも思いますし、また『天使論』では男性二人が見ているという状況があったので、特にそういった印象を私は受けたのかなと思います。
また、コーラの説明に「ビンの形は女性のボディーライン・・・」というのも出てきて、女性という事を意識させられたりもしましたが・・あの状況はシャレ?では無いですよね?
このことは、私がダンサーの立場になった時、どうしても性別の枠がついてくることに引っかかりを感じて、既に持っている性別の枠だけにとらわれず、ダンサーという役割が出来るのかと考えることがあり、必要以上に気になったのかも知れません。ですが、女性の身体を起用されている事でなにか考えられていることなどがあったら、聞いてみたいなと思っています。
前の西岡さんの質問で改めて今回の作品は、何か「振り」や何か新しい体の使い方の開発というアクセス以外の方法でダンスに接近しようとしていたんだなぁ。と改めて認識しました。
《穴》という事に関してもう少し補足すると、今回の『天使論』の稽古の中で出演者の増田さんに、梅原賢一郎という方が書いた『カミの現象学』という本を教えてもらいました。「『自分以外のものと自分との間の回路』としての『穴』をキーワードに、身体に残る日本文化を解明する」というもので、例えば、おばあさんがお地蔵さんに水を打つ。この時おばあさんはこの習慣の中で、「穴」をあけている。と、そのような事が書かれている訳です。また、「自分ではない何者かが侵入する穴」「穴は自発的に開く」とも書いています。いま手もとに本がないのでないのでちょっと曖昧な部分もあるかもしれませんが。
それを読みながら前回書いたようにぼくが考えている《能動的受動体》というものと近いものを覚えましたし、《能動的受動体》とは単に舞台上にあるからだに限った事だけではなく、というよりはむしろ「見るもの」の身体にこそ向けられるようにも思えました。
演出としての僕や観客はやはり「見る」ことしかできない訳ですし、見る事によって舞台空間と、そこにあるからだと、関係を持とうとする訳ですし、舞台上にある体も穴でありそれを見る私も穴である。そしてそれを結ぶものとしてまなざしがある。「まなざしの身体性」とは、このあたりの事と関係してそうです。
さて、前振りが長くなってしまいましたが、「女性」ということについて、ですが。
正直に言うとまったく考えていません。コーラに関しても偶然です。
また『先制のイメージ』に比べて『天使論』の方が女性っぽいというかくねくねしてるというかそんな印象があるかと思います。特に最初の日常の身振りをしているときですかね。
あの最初の身振りでは、体を動かす、というより重心を置くべきなのは「思い出す」という事です。稽古の中での僕の指示としては「ニュアンスを消してほしい」という事を言っていました。「ニュアンスを消す」というのは体に自覚的にならないでほしい。という事です。
ひとまず『先制のイメージ』や『天使論』でダンサーに対しておこなっていることは動く以前に「イメージする」「イメージしたものを動かす」あるいは「過去を振り返る」というタスクを与えて「動くこと」に対して完全に自覚的になれない作業的に動く状態を作り出そうとしていたので、女性的な印象を持たれたというのは、消そうとしていたニュアンスが出てしまっていたという事があるかもしれません。
それ以降の再演の稽古ではニュアンスを消してゆく作業をかなりしつこくしました。
先日お話ししていた時に西岡さんが「『天使論』では実験をしているというカンジが強くなったような気がする」と仰っていましたが、それも男が二人が前にいる女を見ている。という状況がそうさせたのかもしれませんね。
また、今の質問のようにコカコーラのあのテキストは色んなものとくっついて、簡単に関連や深読みをさせてしまうような文章なので、結構面白いと思っています。
実際には稽古場でたまたまその場にあったコーラの缶を眺めながら、コーラついて延々と説明してみた時、言葉がそこにあるコーラを捉えられないような、むしろそれ自体が遠ざかってゆくような感覚がありました。それはコーラのような製品はほとんどイメージによって成り立っているようなものなので、恐らく僕たちが「コーラだ」と思っているものは実体のない何物かなんだと思います。しかし、日常の生活の中で僕たちはコーラをコーラとして実体がないにも関わらずそれとの強固なパースペクティブを作っているということ。それが言葉によってそのイメージを捉えようとする事で亀裂が走り、私とコーラとの日常的なパースペクティブが変容する。このような言葉とイメージとの関わりは、今回『先制のイメージ』や『天使論』で扱ったダンスと言葉との関係に非常に近いものだと思います。
ひとまず今のところ僕自身は作品を創る上で「女性である」とか「男性である」とかを念頭において作品を創る事はありませんが、『天使論』も男性のダンサーと一緒にやる事で何かしら見え方が変わるのかどうか。西岡さんの質問も踏まえてちょっと試してみたいです。
僕自身、ジェンダーやフェミニズム関して言える言葉を持っていないのですが、西岡さんが「既に持ってしまっている性別に限らず存在できる」為に具体的に試みているような事はありますか?
これは余談ですが最近、いくつか民俗芸能や宗教的儀式を出発点にした作品を見ましたが、それ自体はそれぞれ非常に刺激的な作品でしたが、どちらも最終的には祝祭的な、喧騒を伴って終わってゆきましたが、そこに関しては僕自身そこで行われている事とどんどん遠ざかっていってしまったような感じがありました。
「天使」というイメージを考えるとどうしても宗教や儀式といったものにたどり着くのでそれを「穴」というキーワードで考えた時、見るものを観照に導くような静かな有り様もあるんじゃないかと思ったりしています。
また宗教的儀式に対する身体の有り様は女性と男性とでは随分と違うような気がします。
ダンスも静かなやつとか激しいやつがありますね。
ふっと思ったのですが、ということは、舞台を見ている誰かを、また別の誰かが見て、その姿に何か反応する?ことがあれば、「穴」という存在は連続していくことになりますか?
以前お会いした時に野外パフォーマンスの事をお話しさせていただきましたが、これはdBのレジデントアーティストとして新長田で作品を制作したアヴァ・マウリーンさん(フィリピン)というアーティストの滞在の成果公演です。パフォーマンスは街中の様々な場所で行われ、一か所はデパートの壁を背景にしていて、20人ほどが取り囲むと周りからは中で何をやっているのかわからない状態でした。その状況を街行く人が見ていたり、少し反応して通り過ぎたりしていて、パフォーマンスでおこった波が街の中に流れていくような感覚がありました。このパフォーマンスに対話があったかどうかというより、その状況を偶然見た人がほんの一瞬でも積極的に見るという事が起こると、他者が入り込む穴をその人の身体にも開くことができるのかな、と思いました。事故的にダンスに関わるようなことかもしれないです。舞台という状況においてこのようなことは起こらないかもしれませんが、「能動的受動体」は連続していくということは考えられることなのでしょうか?
そして、「既に持ってしまっている性別だけに縛られず、ダンサーという立場が存在できることはあるのか」について私が試みた事ですが。ヒップホップやバレエの基礎のような型を振付けられた動きを動くということでいうと、癖や直観ではなくテクニックに従事することは既にある型にはめて動くという事なので、性別と離れたところで動ける可能性があるのではないかと考えることもありました。ですが、性別によって異なる特徴を持つ身体の機能や骨格とかの構造、筋肉などはどうしてもその人の運動に関係してしまうので、身体の運動の事だけで見てしまうと、この疑問を解くことには繋がらないなと感じました。また人は日常の中で性別によって異なる経験をしていくので、身体が日常の生活を行う状況(バイトをしたり洗濯をしたりする身体)のままでも難しいはずだなと思っています。私はダンサーだったりするので踊る為の訓練をしてきましたが、この訓練は自分の身体を自分が生活すること以外の目的にも使えるようにしていくことでもあると思っています。まず日常的でない身体を作ること。身体が、身体の持ち主の日常に影響されずに動けること。そうする事で新たな状況(振付)や、影響を身体が反映していくことが出来ます。但し、身体にはそういった入れ物のようなものという意外に、そこに感情や心も住んでいます。その見ることの出来ない感情や心が、性別とどう関わっていて、どう関わらない状況が作れるのかは、私にはまだわからない事で、これから考えていきたいなと思っていることです。
宗教的儀式は男性と女性の存在が先にあって生まれたことなので、そこが出発点の動きだと、そうですね、男性と女性の身体のあり方は違ってくるのだろうと思います。
すみません、時間が来てしまったので、この辺でメールを送ります。
天使論、もしくはそこから生まれた作品が「見るものを観照に導くような静かな有り様」のようなもので現れるとしたら、とても見させていただきたいなと思っています。
最後に西岡さんが書いてくださっていた野外パフォーマンスのお話、未だに僕自身も整理がつけきれていないのですが、野外でのパフォーマンスと劇場でのパフォーマンスについては僕自身もう少し慎重に考えてゆきたい部分でもあり一旦お返事、保留させてください。
以前僕も野外で中平卓馬のテキストのリーディングを行いましたが、野外でのパフォーマンスではその企てを拒絶するかのように都市からのまなざしが暴力的に介入してきます。ですが、その都市からの拒絶のまなざしは、パフォーマンスによって差し込まれるフィクションと都市、あるは世界との摩擦によって空けられた《穴》から現れてくるまなざしであるとも言えると思います。野外でのパフォーマンスはそのようにして世界と出会う可能性を持ちうると思っていますが、それでもなお劇場でパフォーマンスを行うこと、劇場という閉ざされた空間の中で世界と出会おうとすること、僕はそこにあくまでもこだわろうとも思っています。そして劇場という場が改めて《穴》として機能しうるには、どのような企てが必要なのか。今、そのようなことを考えています。
前回、「we dance」で「ダンサーとダンス作品をつくる」という枠組みにあった『先制のイメージ』に対し、演劇・ダンスではなく「舞台」に立つからだとそこに向けられる視線をめぐる、アクチュアルなお話が展開されています。
前のお話、つまり「アフター」が一つのダイアローグをまだお読みでない方は、コチラからどうぞ>>>
from 相模友士郎 to 西岡樹里西岡さんが、対談の前にメールで書いてくださっていた質問について、考えていました。
「ダンサーとして、日常の行動がダンス(?)になるその瞬間がどこにあるのかは気になることの一つです。それが、相模さんとダンサーの間で一致しているのか、ずれているのか。それを毎回同じ瞬間に感じるのか。
また、ダンスでは無い何か別の状態へ向おうとしていらっしゃったのかな、と感じたので、その辺のお話などを聞かせてもらえたらいいなと思っています。」
一つ目のご質問に回答すると、実は「日常の行動がダンス」になるということは『先制のイメージ』『天使論』初演では明言していません。
しかも指示の内容も「踊る」という言葉を一切使わずに進行しています(『先制のイメージ』では一回「踊る」と、ぽろっと言ってしまって「しまった!」と思いました)。ダンサーの◯◯さんです。という紹介はしましたが、そこで進行しながら指示してる内容と目的は、必ずしも振付けのようにして“ダンス”を創ろうというものではありません。
つまり対談でお話しした「対話としてのダンス」というのは、舞台上で踊っている(今回でいうと動いている)からだというよりはむしろ、そこで見えているもの/見えていないもの/見ようとしているものといった可視と不可視の間を僕の言葉とダンサーの体とを指針に時には結び、時には結ばれない観客のまなざしとの共同作業。その関係体そのもののことのような気がしています。
「ダンスでは無い何か別の状態へ向おうとしていたのか」という点については、ダンサーへの体のアプローチとしては、先日お話しした《能動的受動体》とでもいうべき体の有り様があると思います。もうすこしラフに言うなら《穴》のような身体の状態を指向していたのです。
《穴》とはこちらとあちらを繋げるものでもあるし、同時に境界でもある。また、輪郭は明確にありながらも実体は不在、欠落を示しており、不在の存在としてしか《穴》足り得ない。
そのような両義性を孕んだ《と》(ここ「と」そこ)としての身体を指向していた訳ですが、それは《能動的受動体》である以上、こちらから(舞台上で踊る/演じるからだ)は自ら語りださない。モノローグにはなりえない。
「私が語る」ということを拒否した以上、どのように見る人とコミュニケーションを取ろうかと考えた時に、能で言う《ワキ》がいる。ということで、今回のような形式が自然と選びとられていったのです(ちなみに『DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー』では自ら動き出さない俳優をお年寄りが動かす、ということをやっていましたし、『中平卓馬/見続ける涯に火が・・・』ではリーディングだったのですが、本を読む(能動的なテキストへのアクセス)という代わりにipodに吹き込んだテキストを俳優が聞きながらそのまま声に出す。ということをしていました。それらも今回の僕の《ワキ》的な役割を持っていたと思います)。それと同時に僕が《ワキ》として語ることで僕がこういう体をとりあえず工作しようとしている。という僕自身のダンサーの体のみかた、指示の仕方をそのまま見せてしまうことで、見ている観客のまなざしをも振り付けられるんじゃないかという意図も同時にあったと思います。
また、写真家の中平卓馬はこのように書いています。
「対話。受容的であること。不断に自己を超え出ること。これらはひとつのものである。受容的であるためには対話は不可欠のものである。そして対話とは私から他者へ、他者から私への往環を、保証するものである。私と他者との対話、私と世界との対話、そのせめぎ合いの中で「私」は関係としていま、ここに、在る。(個の解体・個性の超克)『見続ける涯に火が… 批評集成1965-1977』所収」
この中平卓馬の言葉を道しるべにしながら「対話としてのダンス」を模索してみようという舵取りをした部分も大いにあると思います。
from 西岡樹里 to 相模友士郎「・・・《穴》だとか《と》だとかいう《能動的受動体》とでもいうべき体の有り様・・・」
《穴》っておもしろいですね。何かを結んだり通過させたり、周りによって存在できる実態の無い、でも確実に存在するものですね。観客の前に現れる相模さんの言葉と観客を交換・往復する何かが通過する、目に見えないはずのその間が身体によって模られていて、身体を見ているのか通過する何かを見ているのか、それが見えないはずの《穴》なのか、判断が錯覚を起こしたように私は感じて、とても面白いなと思いました。
そして、相模さん自身のダンサーの身体の見かた、指示の仕方を観客も共有して見つめている状況が、(「すごいダンスin府庁」を見るまでは)理科の実験みたいにも感じました。相模さんが提示する「こう見える」を観客も一緒に、もしくは追いかけるように体験して、「こう見える」かどうかを確認する。見ている人が目の前で何が起こってるのかに対する正解を重ねながら作品を見ていくことは、私が演劇を見る体験に近いようにも感じました。ダンスでは観客の自由な想像力に期待する部分があったりすることもあります。ですが物語のある演劇では、途中観客が個々に自由な解釈をすると、それ以降物語がわからなくなってしまう。だから、ある程度の人が同じ受け取り方、見え方をしている事が意識されて進めていく。こういったことがこの作品でも行われているので、演劇みたいだなと感じたのだと思います。
また、私はその間として起用したダンサー(身体)のことにも興味がひかれました。
この作品は、特別性別が関係するものではないですが、『先制のイメージ』に比べて『天使論』は、ダンサーが女性であるという印象(ダンサーの女性っぽさ?)をうけました。ダンサーの個性や、その人の背景が関係している事なのかなとも思いますし、また『天使論』では男性二人が見ているという状況があったので、特にそういった印象を私は受けたのかなと思います。
また、コーラの説明に「ビンの形は女性のボディーライン・・・」というのも出てきて、女性という事を意識させられたりもしましたが・・あの状況はシャレ?では無いですよね?
このことは、私がダンサーの立場になった時、どうしても性別の枠がついてくることに引っかかりを感じて、既に持っている性別の枠だけにとらわれず、ダンサーという役割が出来るのかと考えることがあり、必要以上に気になったのかも知れません。ですが、女性の身体を起用されている事でなにか考えられていることなどがあったら、聞いてみたいなと思っています。
from 相模友士郎 to 西岡樹里あまり結論を急がずゆっくりと咀嚼しながら進めていければと思っています。
前の西岡さんの質問で改めて今回の作品は、何か「振り」や何か新しい体の使い方の開発というアクセス以外の方法でダンスに接近しようとしていたんだなぁ。と改めて認識しました。
《穴》という事に関してもう少し補足すると、今回の『天使論』の稽古の中で出演者の増田さんに、梅原賢一郎という方が書いた『カミの現象学』という本を教えてもらいました。「『自分以外のものと自分との間の回路』としての『穴』をキーワードに、身体に残る日本文化を解明する」というもので、例えば、おばあさんがお地蔵さんに水を打つ。この時おばあさんはこの習慣の中で、「穴」をあけている。と、そのような事が書かれている訳です。また、「自分ではない何者かが侵入する穴」「穴は自発的に開く」とも書いています。いま手もとに本がないのでないのでちょっと曖昧な部分もあるかもしれませんが。
それを読みながら前回書いたようにぼくが考えている《能動的受動体》というものと近いものを覚えましたし、《能動的受動体》とは単に舞台上にあるからだに限った事だけではなく、というよりはむしろ「見るもの」の身体にこそ向けられるようにも思えました。
演出としての僕や観客はやはり「見る」ことしかできない訳ですし、見る事によって舞台空間と、そこにあるからだと、関係を持とうとする訳ですし、舞台上にある体も穴でありそれを見る私も穴である。そしてそれを結ぶものとしてまなざしがある。「まなざしの身体性」とは、このあたりの事と関係してそうです。
さて、前振りが長くなってしまいましたが、「女性」ということについて、ですが。
正直に言うとまったく考えていません。コーラに関しても偶然です。
また『先制のイメージ』に比べて『天使論』の方が女性っぽいというかくねくねしてるというかそんな印象があるかと思います。特に最初の日常の身振りをしているときですかね。
あの最初の身振りでは、体を動かす、というより重心を置くべきなのは「思い出す」という事です。稽古の中での僕の指示としては「ニュアンスを消してほしい」という事を言っていました。「ニュアンスを消す」というのは体に自覚的にならないでほしい。という事です。
ひとまず『先制のイメージ』や『天使論』でダンサーに対しておこなっていることは動く以前に「イメージする」「イメージしたものを動かす」あるいは「過去を振り返る」というタスクを与えて「動くこと」に対して完全に自覚的になれない作業的に動く状態を作り出そうとしていたので、女性的な印象を持たれたというのは、消そうとしていたニュアンスが出てしまっていたという事があるかもしれません。
それ以降の再演の稽古ではニュアンスを消してゆく作業をかなりしつこくしました。
先日お話ししていた時に西岡さんが「『天使論』では実験をしているというカンジが強くなったような気がする」と仰っていましたが、それも男が二人が前にいる女を見ている。という状況がそうさせたのかもしれませんね。
また、今の質問のようにコカコーラのあのテキストは色んなものとくっついて、簡単に関連や深読みをさせてしまうような文章なので、結構面白いと思っています。
実際には稽古場でたまたまその場にあったコーラの缶を眺めながら、コーラついて延々と説明してみた時、言葉がそこにあるコーラを捉えられないような、むしろそれ自体が遠ざかってゆくような感覚がありました。それはコーラのような製品はほとんどイメージによって成り立っているようなものなので、恐らく僕たちが「コーラだ」と思っているものは実体のない何物かなんだと思います。しかし、日常の生活の中で僕たちはコーラをコーラとして実体がないにも関わらずそれとの強固なパースペクティブを作っているということ。それが言葉によってそのイメージを捉えようとする事で亀裂が走り、私とコーラとの日常的なパースペクティブが変容する。このような言葉とイメージとの関わりは、今回『先制のイメージ』や『天使論』で扱ったダンスと言葉との関係に非常に近いものだと思います。
ひとまず今のところ僕自身は作品を創る上で「女性である」とか「男性である」とかを念頭において作品を創る事はありませんが、『天使論』も男性のダンサーと一緒にやる事で何かしら見え方が変わるのかどうか。西岡さんの質問も踏まえてちょっと試してみたいです。
僕自身、ジェンダーやフェミニズム関して言える言葉を持っていないのですが、西岡さんが「既に持ってしまっている性別に限らず存在できる」為に具体的に試みているような事はありますか?
これは余談ですが最近、いくつか民俗芸能や宗教的儀式を出発点にした作品を見ましたが、それ自体はそれぞれ非常に刺激的な作品でしたが、どちらも最終的には祝祭的な、喧騒を伴って終わってゆきましたが、そこに関しては僕自身そこで行われている事とどんどん遠ざかっていってしまったような感じがありました。
「天使」というイメージを考えるとどうしても宗教や儀式といったものにたどり着くのでそれを「穴」というキーワードで考えた時、見るものを観照に導くような静かな有り様もあるんじゃないかと思ったりしています。
また宗教的儀式に対する身体の有り様は女性と男性とでは随分と違うような気がします。
ダンスも静かなやつとか激しいやつがありますね。
from西岡樹里 to 相模友士郎「『能動的受動体』とは単に舞台上にあるからだに限った事だけではなく、というよりはむしろ「見るもの」の身体にこそ向けられる」「舞台上にある体も「穴」でありそれを見る私も穴である。」と書いてくださっていました。
ふっと思ったのですが、ということは、舞台を見ている誰かを、また別の誰かが見て、その姿に何か反応する?ことがあれば、「穴」という存在は連続していくことになりますか?
以前お会いした時に野外パフォーマンスの事をお話しさせていただきましたが、これはdBのレジデントアーティストとして新長田で作品を制作したアヴァ・マウリーンさん(フィリピン)というアーティストの滞在の成果公演です。パフォーマンスは街中の様々な場所で行われ、一か所はデパートの壁を背景にしていて、20人ほどが取り囲むと周りからは中で何をやっているのかわからない状態でした。その状況を街行く人が見ていたり、少し反応して通り過ぎたりしていて、パフォーマンスでおこった波が街の中に流れていくような感覚がありました。このパフォーマンスに対話があったかどうかというより、その状況を偶然見た人がほんの一瞬でも積極的に見るという事が起こると、他者が入り込む穴をその人の身体にも開くことができるのかな、と思いました。事故的にダンスに関わるようなことかもしれないです。舞台という状況においてこのようなことは起こらないかもしれませんが、「能動的受動体」は連続していくということは考えられることなのでしょうか?
そして、「既に持ってしまっている性別だけに縛られず、ダンサーという立場が存在できることはあるのか」について私が試みた事ですが。ヒップホップやバレエの基礎のような型を振付けられた動きを動くということでいうと、癖や直観ではなくテクニックに従事することは既にある型にはめて動くという事なので、性別と離れたところで動ける可能性があるのではないかと考えることもありました。ですが、性別によって異なる特徴を持つ身体の機能や骨格とかの構造、筋肉などはどうしてもその人の運動に関係してしまうので、身体の運動の事だけで見てしまうと、この疑問を解くことには繋がらないなと感じました。また人は日常の中で性別によって異なる経験をしていくので、身体が日常の生活を行う状況(バイトをしたり洗濯をしたりする身体)のままでも難しいはずだなと思っています。私はダンサーだったりするので踊る為の訓練をしてきましたが、この訓練は自分の身体を自分が生活すること以外の目的にも使えるようにしていくことでもあると思っています。まず日常的でない身体を作ること。身体が、身体の持ち主の日常に影響されずに動けること。そうする事で新たな状況(振付)や、影響を身体が反映していくことが出来ます。但し、身体にはそういった入れ物のようなものという意外に、そこに感情や心も住んでいます。その見ることの出来ない感情や心が、性別とどう関わっていて、どう関わらない状況が作れるのかは、私にはまだわからない事で、これから考えていきたいなと思っていることです。
宗教的儀式は男性と女性の存在が先にあって生まれたことなので、そこが出発点の動きだと、そうですね、男性と女性の身体のあり方は違ってくるのだろうと思います。
すみません、時間が来てしまったので、この辺でメールを送ります。
天使論、もしくはそこから生まれた作品が「見るものを観照に導くような静かな有り様」のようなもので現れるとしたら、とても見させていただきたいなと思っています。
from 相模友士郎 to 西岡樹里書いていた当初と、府庁での公演後で少し作品に対する考えが変化してきた部分があり、しばらく筆が止まってしまっていました。ですが、書いていた当初の考え自体も根幹としては揺るいでいないと思い至り、お返事を続けることにしました。
最後に西岡さんが書いてくださっていた野外パフォーマンスのお話、未だに僕自身も整理がつけきれていないのですが、野外でのパフォーマンスと劇場でのパフォーマンスについては僕自身もう少し慎重に考えてゆきたい部分でもあり一旦お返事、保留させてください。
以前僕も野外で中平卓馬のテキストのリーディングを行いましたが、野外でのパフォーマンスではその企てを拒絶するかのように都市からのまなざしが暴力的に介入してきます。ですが、その都市からの拒絶のまなざしは、パフォーマンスによって差し込まれるフィクションと都市、あるは世界との摩擦によって空けられた《穴》から現れてくるまなざしであるとも言えると思います。野外でのパフォーマンスはそのようにして世界と出会う可能性を持ちうると思っていますが、それでもなお劇場でパフォーマンスを行うこと、劇場という閉ざされた空間の中で世界と出会おうとすること、僕はそこにあくまでもこだわろうとも思っています。そして劇場という場が改めて《穴》として機能しうるには、どのような企てが必要なのか。今、そのようなことを考えています。
相模友士郎(さがみ・ゆうじろう)
1982年福井生まれ。演出家。2000年より映画製作を始め、国内外で作品を発表。2004年より舞台作品の創作を始め、2009年には伊丹市の70歳以上の地域住民との共同作業による舞台『DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー』を発表。同作品は翌2010年、フェスティバル/トーキョー10に招聘され再演された。その他の作品に『中平卓馬/見続ける涯に火が・・・』(2011年) 『先制のイメージ』 『天使論』(2012年)など。また、デザイナーとして様々な公演の宣伝美術を手がけ、『プロセス−太田省吾演劇論集—』『舞台芸術』『土方巽−言葉と身体をめぐって—』など本の装丁も行っている。 http://www.sagami-endo.com
西岡樹里(にしおか・じゅり)
兵庫県在住。ダンサー・振付家。2010年神戸女学院大学舞踊専攻、卒業。その後、砂連尾理「劇団ティクバ+循環プロジェクト」(神戸・独・京都),Stephen Mosblech〈ASBESTOS PROJECT〉(神戸)、村越直子「nothing-weight-light」(加)などにダンサーとして参加し国内外で活動。また、音楽家との共同制作作品「harmony」[2012年]、モノと人の関係を見つめ直す舞台作品「C/O/S/M/O/S」(DANCE BOX『国内ダンス留学@神戸ショーイング』)[2013年]を振付。その他、企画・プロデュース公演「Tool」[2012年]を行い、音楽・映像・ダンスなど様々な層のアート、観客が交わる場を神戸にて開催。同年より福祉専攻科にてダンス講師を務める。
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- ■2015.6.13
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- ■2014.8.5
【暑い夏14】A-1・2「新しい風を取り入れたい…... - ここ数年、私はフェスティバル会場で出会った方とのご縁をもとにインタビューしていく「わらしべ長者インタビュー」ということを続けて........
- ■2014.8.5
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- ■2013.9.29
伴戸千雅子インタビュー>ryotaro[UrBAN... - ダンスのうちそと 京都のアンダーグラウンドシーンを支えるライブハウスUrBANGUILD。音楽だけでなく、ダンス、パフォーマ........
- ■2013.9.29
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- ■2013.6.18
【暑い夏13】一問多答インタビュー ... - インタビュアー・構成:森下瑶 翻訳:橋本純 皆さんは、空間と身体の関係について意識した事はありますか?おそらく普通の........
- ■2013.6.18
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- ■2013.6.5
【暑い夏13】わらしべ長者インタビュー(2)... - このインタビューのおおもとの動機は、ダンスへの現在形の関心を、体験レポート以外のやり方でも拾い上げることにあります。基本の質問........
- ■2013.6.5
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- ■2013.6.3
【暑い夏13】わらしべ長者インタビュー《延長編》 ... - 菅井一輝さんは、本フェスティバルから躍進したダンサーを多く輩出する名古屋のダンスカンパニー、afterimage(アフターイマ........
- ■2013.6.3
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- ■2013.5.27
【暑い夏13】わらしべ長者インタビュー(1)... - 2年ほど前に偶然はじまった「わらしべ長者インタビュー」。これは、会場内でご縁のあった方に声をかけ、このワークショップフェスティ........
- ■2013.5.27