2013年04月28日

字幕「これは祈り」_small

舞台写真:徳永のぞみ

神楽という、生活や労働をともにする人々の間で大切にされ、世代を超えて手渡しされてきた神々との交信術を、現代の上演の枠組みに置く。『祭礼』は、そのことに由来する問いに始まるが、それら一見素朴な疑問が観客の心の琴線に触れるのは、演じ手の生を経由して生きること働くことにもつながってゆくからではないだろうか。神楽舞の素養を持ちながら現代演劇の前線での挑戦を続けてきた俳優、高安美帆[エイチエムピー・シアターカンパニー]と、その対極的な世界を二重写しに見ようとする劇作家・演出家、樋口ミユ[Plant M]に、パフォーマンスを振り返って貰った。


takayasu kagura + Plant M 『祭礼』 2013年3月30日、31日@イロリムラ・プチホールにて上演
演出・テクスト:樋口ミユ、パフォーマー 巫女:高安美帆、奏者:岸本昌也
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花が倒れた_small

■どのようにして『祭礼』をつくることに?
樋口:まずはエイチエムピー・シアターカンパニーさんと一緒に作品をつくった数年前から、どうしても高安さんと一緒にお芝居がつくりたいと思っていました。数年経って高安さんが巫女だということを知ったあたりで、一緒に何かつくれないかという話になった。ちょうど彼女は神楽のこと、私は演劇のことでいろいろ考えていて、共通するところがあったので自然とそういう流れに。

高安:ちょうど2011年から2012年にかけて、子供の頃から舞ってきた神楽に改めて取り組むことになり、パフォーマンスとしてやってゆくにはどうしたらいいか、考えていた時でした。また、昨年Plant Mさんで上演された『after shock』という作品を見て、自分が今考えていることと何か共通するのではないかと思えたんです。

樋口:彼女が巫女だと知ったときは親近感を感じました。修道女だったらコラボレーションにはならなかったな(笑)。というのも、カトリック系の高校での教えには違和感があったのに、大人になってから出会った神道は自分がずっと考えてきたことに近いと思っていたんです。ちょっと痛い話に聞こえるかと思いますが、私は子供の頃、妖精がいると思い込んで妖精カードなるものを購入し、毎晩カードに手を添えて「妖精さんが見えますように」ってやっていたんですよ。それがまた、「綺麗な心には見える」とか書いてあるので、大人になる頃「見えなかった=心が汚かった」と、妖精カードもろとも信心も捨ててしまった(笑)。でも神道を知ったとき、その子供時代の悲しい気持ちが軽くなった。見える見えないにかかわらず、いるものはいるのだから、と。対して、キリスト教では「神」は存在する/しない、救う/救わないを問い続け、唯一無二でなくてはいけない。私たちが「神さま」と言う時は複数ですよね。だから『祭礼』のテクストで「神はいない」と書いたのも、救ってもらうための神はいないけど、寄り添って生きるものは常にある、と。

高安:一緒に作品づくりをしていく中で、今説明されたような意味でテクストを書かれているのだと腑に落ちました。日本の神道って宗教というよりも、日本の風土、そこで生活してきた人間が自然環境とどのように関わってきたのか、またそこから感じることが受け継がれているものだと考えています。例えば、神道には教典がないし、一者としての神がいないし、そして敢えて何も言わない、どうぞご自由に感じてくださいというところがある。だから、樋口さんが共感されたのもわかります。また里神楽は、古くから里で行われてきた日本固有の民俗。巫女さんの舞を見て感じるところがあるのは、そことダイレクトに繋がるからかなというふうに私は考えています。

樋口:まさに、宗教じゃなくて民俗ですよね。そこに住んで、生きて、伝承でも習慣としても伝えられるけれど、遺伝子レベルといったことも感じられるような。

高安_small
■神楽舞とは?
樋口:リハーサルで面白かったのは、2人とも違う地域でこれまで舞ってきて、型も全然違うのに、初顔合わせで「ああ、その笛か」とか「ああ、その運びね」みたいに、私のわからないところで通じ合っている。私は「『その』ってどのよ?」と、蚊帳の外でした。

高安:初日に樋口さんが「踊ってみましょうか」っておっしゃったので、それぞれ舞ってみたら、共通するところがたくさん見つかりました。浪花神楽と出雲神楽は違う地域なので型は違うけれど、基本的なテンポ、運び方。何より舞い手が主体的に舞うのではなくて受け身な体であるところなど。

樋口:「俺の踊りを見てくれ」「私、今舞っています」といった感じは一切ない。

高安:その違いについて、どう思っているかといったやりとりをしていたら、だいぶ時間がたっちゃって。

樋口:「私は容れ物ですから」と、高安さんと岸本君は同じことを言うんです。「私が表現する」でも「何かを表現する」でもなく。かといって無私っていうのでもないけれど。高安さんの舞は高安さん、岸本君の舞は彼でしか勿論できないのだし。

高安:そういった、いわゆる西洋近代の”表現”との違いはドイツで学んだ時も感じました。そのことがパフォーマンスとしての神楽にもつながってきます。最初に行った時—2011年の震災の二週間後でかなり混乱したままでしたが—改めて思ったのが、自分が大学で、いわゆる近代ヨーロッパの演技・舞踊スタイルを学んできたということでした。もちろん古典芸能の授業もありましたけれど、私自身の関心も必修科目も完全にヨーロッパの近代に向かっていました。学んだ内容自体は、ドイツで彼らと共同制作をするときに大変役に立ったのでそれはそれで良かったのですが、ちょっと疑問を持っちゃった。ヨーロッパで長い時間をかけて受け継がれてきたものが、近代化の流れで日本に輸入され、そういったものを自分は一生懸命学んで、さらにここでもう一度勉強し直している、と。また彼らから「美帆の身体性が違うのは何故なんだ、何か日本で訓練していたのか?」と聞かれ、そういえば…と神楽舞について再び考えるようになりました。

樋口:岸本君も、座・高円寺の芸術アカデミーの同期の発表の時に、音出しを手伝いながら見ていたら、彼の踊りは他の人と比べて明らかに違っていたんです。身体性と言うのか、体の運び方や佇まいが。それで、何がこんなに違うのかと思っていたら、後で神楽をやっていると。それで、神楽というのは彼自身を構成する要素の一つなのかなと思った。自分が舞うというのでなく、その型なりがすでに体に染みついて入っている。

高安:岸本君も私も、舞うことがあまりに自然すぎて気づかないことがある。だから『祭礼』での樋口さんの存在が大きかったです。それまで神事でしか舞ったことがない、つまり見物人はいても彼らに見せるためのものではない。また、19世紀に万博などでアジアの芸能がヨーロッパに紹介されたような風に、見世物としてするつもりもない。そういったことを一年くらい考えて、ヨーロッパの方と、神楽って何なのかとか話をして、自分でも神楽を勉強し直して、ようやく2012年にこういう形でならやれるかなというのを、リスタートさせたんです。日本の中でも、神楽ってあまり見たことがないっていうかたもいらっしゃるし、震災とかでどうやって生きようかと考えたとき、原点に戻ろうとも思いました。

おまけ_small
■どのように演出していったのですか?
樋口:テクストは、2人が舞ってるところを見る前に、私の脳内だけの勝手な想像で、神楽に対して思うことや疑問を全部書いていった。そうすると、自分が演劇をすることにもつながってきて、自分のことを書いているような感覚でした。
 ただ、実際稽古が始まって、2人の舞と彼の笛を実際知ってしまうと、正直、テクストが邪魔だなと思い、稽古の途中で要らない言葉をどんどん削ってゆくことになりました。例えばダンスの場面も、私がダンスの専門でなく言葉によって生きていたりするので、このダンスを表す言葉を提示したほうがお客さんにはいいのかなと、さまざまな文字の映像を準備していたんです。でも言葉が要らないということは、映像をつくってくれたサカイヒロト君にも指摘されて、本当にたくさん準備してもらった映像を、申し訳ないと思いつつ、使わないことにしました。
 実際にそこにかかわった時に、人間だから言葉で説明するし言葉ありきなんだけど、神楽で言うところの神というものがいるなら、言葉を超えたものでしかないなあと。例えば高安さんの舞を、オペレーターのののあざみは「悠久の時を感じる」と言ったんですが、確かにと思う反面、言葉にした瞬間違うとも思う。言葉にすることって枠にはめこむことでもあるので、その言葉を取っ払うためにあの舞があるんだろうし。彼女の舞と彼の笛は、それ以上のものを・・・語るわけじゃないんですよ、優れた「容れ物」には、観客がいろいろ代入するんですね。観客って、私1人でも、いろんなことを思うでしょう?高安さんの舞を見た時、そこに自分を見るから、お客さんが自分の物語をつくっていけると思ったんです。

高安:観客一人ひとりにもそれぞれ膨大な歴史があって、それがそのままその人に返ってくることが一番演劇的だったり、舞台に立つ上で大切なことかなと、私も思います。樋口さんの戯曲も、そういう部分がありますよね。

樋口:神楽が「容れ物」であると言われたとき、私はそれが本来の演劇的な行為なんじゃないかと思いました。例えばストーリーがあって登場人物がおり、この人物がストーリーを展開するのを観客が眺めるという構造ではなくて、この人物がイコールあなたであるといったことができないかなと。つまり、舞台と客席の間に壁をつくらない、今ここで起こっている問題は観客席に座っているあなたたちのものなんだということ。だから高安さんの舞を見て、そこで舞っているのは高安さんではなくて私自身なのだというふうになればと。その時、高安さんの舞の部分のテクストは、私たちの一年間抱え込んだ汚れを総ざらえするようなものにしたいなと考えました。舞っている高安さんが自分に見えることによって、内側の何かが出てきてしまうというか。

岸本長台詞_small
■演じるということは? 現代の演劇との違いは?
樋口:今回お二人は、舞っている時の完全に神楽の状態と、ちょっと台詞をしゃべる演技の部分があって、どうやっていいのかとまどったかも。特に岸本君の長台詞の場面は、彼が実際にうった公演について聞き及んだ私の想像で書いたテクスト。言いたくなければ変えていいとは言ったけれど・・・

高安:揺らぐところですね。神楽を舞っているときの体と、演技としてしかも自分自身に近い台詞を言うときの差。「神楽の時は僕たちはこうで、でも演技になるとこうで・・・」わりと樋口さんに対して言ったりしていましたよね。それに対しても樋口さんは寛容で。

樋口:「僕は行き来しなきゃいけないんですね」って言われて。行き来しているのも見えたらいいかなと。

高安:「それで行こう」って言ってくださったのが大きかった。

樋口:「行き来してて居心地が悪いんですよ」となっても、なら居心地が悪いままで行こうよ。それをそうじゃないと繕った瞬間、嘘の演技になるというか・・・。ただ岸本君は、だいぶしんどかったと思いますけれど。

高安:でもイヤと言わなかったのは、これをやったらどうなるんやろう、という好奇心が私たちにあったからでしょうね。

樋口:「笛を吹いた後、台詞を言ったらどうなるのか試してみたい」と、彼も言っていましたね。
 それとは別の話になるかも知れないけど、パフォーマーって、揺れないと演技を探れませんよね?自分の肉体を使って戯曲の読みをどう提示するか。演出家の出してきた空間の中で自分はどういう存在なのか。そういったことを考えてあれこれやらないと。でもそれを考えないでもいいやり方はたくさんあるんですよね。テクストがあって演出がすべて決まっていれば、役者は考える必要がない。でも役者が考える必要がないのであれば、舞台なんかしなくてもいいとさえ私は思う。そういう方法でつくられた演技は、わかりやすい仕草を積み上げていって物語を説明はできるけれど・・・。

高安:ライブで見る意味がない。
 私はドイツのルネ・ポレシュという劇作家・演出家の作品が好きで、それでドイツに行ったんですけれど、彼も特定のやり方にこだわらず、あなたが本当に「そこ」にいるっていうことをラディカルに突き詰める人でした。台詞はもちろんきっちり読むのですが、それが自分にとってどういう距離感を持っているのかということが重要で、それが出ていないものは嘘というか、面白くない。だから昨日と違うことをやってもそれがリアルであればいい。演出家の演劇というものを否定しているようにに思いました。そんなやり方でフーコーなどの哲学テクストとか、「糞ったれ、糞ったれ」といった言葉を扱っていたのですが(笑)。

樋口:ストーリーラインは?

高安:ありません。私は、エルンスト・ブッシュ演劇大学で、これからプロになる俳優さんと作品をつくる稽古で助手についたのですが、そういったやり方なので、俳優たちは初めはとまどっている。でも自分への問いかけをするので、そのうちどんどん生き生きしてきて、それぞれ個性が出てきて、自然と作品にエネルギーも生まれてくる。これもひとつの方法だと思います。だから演技へのアプローチっていうのは、いろんな方法があるのだということを私たちはわかっていればいいのかなと思います。

ラスト2人_small
■今後の活動は?
樋口:劇団Ugly ducklingを解散した頃、演劇は誰のためのものかと考えるようになったんです。劇団をやっていた頃はそこは明確で、劇団のため、そして劇団イコール私たちだった。考え出すと、自分のためか。役者のためか、劇作家のためか、演出家のためか。仮に観客のためと言っても、観客っていうのもいろいろで、一括りで考えてもどうなるものでもない、とか。それともお金をまわすためにあるのか、スタッフのためになるのか,等々。『祭礼』を終えた今思っているのは、まだはっきりしないけど、さしあたり作品のためかなと。誰のために偏るでもなく、関係する人々の間でバランス良くつくられて、エネルギーや行為やいろんなものが廻る場としてある時、それも「容れ物」だな、と。意味を差し出すのでなく、誰もが何かを代入できるものに興味があるんですよね。そのあたりがうまいことバランスよくできた作品は、エネルギーなりなんなりを再分配できる。
 今回なんでこんなにうまく廻ったのかと考えると、パフォーマーの二人が、この「容れ物」としての空間をつくるという点で主体的に関わってくれたからだ。なので、この作品は、戯曲がメインではない、演出主導でもない。パフォーマーが主体。演劇ってそうあるべきなんじゃないかと思うような、共同作業をしたなとすごく感じました。

高安:そこでも神楽が大きな要因だったと思います。私も岸本君も長年舞ってきた者として、樋口さんに対して言わざるを得ないことがある。私と岸本君の間でも、由来が違うので話し合わないとわからないことがある。いわゆる一緒につくるというかたちに自然となっていった。
 もともと神楽は神事ですから、それを現代化するというのは、勇気の要る作業ではありました。もしかしたら神楽っていうものを壊してしまうかも知れない。だけど何を壊して何を残すのかという選択を、自分自身でもして、岸本君とも相談して、樋口さんに投げるという作業は、新しい試みでした。ソロで舞っている時は、そこまで自分自身で突っ込んでいっていなかったことがある。
 今回の収穫は、劇作家、演出家である樋口さんという第三者が神楽をこのように見るのだということが如実にわかったこと。これはコラボレーションの醍醐味だなと。それとは別に、私自身が作品をつくり、それをいろんな場所に持っていって自分で演じると、それは巫女としてなのか、パフォーマーとしてなのかが曖昧になっていく。そういうこともあり、今、神楽を媒介としていろんなコラボレーションをやっていきたいなと思っています。今回の『祭礼』も、ブラッシュアップして続けてゆきたいなとも話しています。例えば砂の上で私たちが舞うと、図形が見えてくるじゃないかとか、場所もどんどん変化させていきたいなと。ただ、そういった神事のためではなく様々な場所で舞うこと、現代化することそのものによる変化に対して、私に求められることになる説明責任について、これから引き受けていかなくてはならないと感じています。

樋口:私はそろそろ次の台本を書かなきゃと思っていて、今、人間としてそんなこと言っちゃダメだよっていうようなことを言う人を舞台に出して、それはあなたたちでもあるんです、ということをできないかと考えています。それは3.11後の自分ということもあるのでしょう。私は劇団を立ち上げて解散したのが、ちょうど二つの震災の年なのですが、阪神大震災の時は19才だったこともあり自分のことしかありませんでした。でも劇団を解散した辺りから、今、自分が生きている時代はどういう時代なんだろうか、人類はどこにいくんだろうかといったことを考え始めたんです。
 この2年間、私たちは被災者のことを考えろと言い続けてきて、つながろうと言い続けてきてて、でも原発がなくならない時点で、そうじゃなかったんだね、と思ったんです。「原発の問題、俺は関係ない」「だって知らんし」という世界なんだね、だから日常に戻れていけてしまうんだねと。そういった、生きていく上での矛盾を芸術にぶつけようという気はないのですが、ただ片方だけ見て行けたら生きやすいけど、両方見えたら生きづらいという矛盾と、言葉を扱う私はどうつきあっていくのか、ということが3.11後に考え出したということなんでしょうね。

高安:今、大部分の人は引き裂かれていると思う。原発には反対でも、電力なしでは生きていけない。その割り切れないところを、樋口さんの戯曲は矛盾のままかたちにして投げかけてくれるところが、いいんだと思います。

樋口:でもあまりにも暗すぎるのかなあ、こんなの見たくないかあと思って、パソコンの前でちょっと書いては、ん~って思って消したりしてる。

高安:そういうの、私は見たいと思うけどなあ。

樋口:いやそんなことないって。やっぱり心暖まりたいし、みんなつながろうねってことで救われたし、そういう作品をつくらなきゃいけないのかなと思ったりもするんですよ。でも矛盾を抱えたことがらについても、代入を引き起こすような、演劇でしかできないことがあるんじゃないかと思っていて、『祭礼』は2人の優れた「容れ物」によってそれが機能したにせよ、やっぱりそういう作品をつくってゆきたいなと思います。

(4月2日@カフェ+ギャラリーcan tutku)

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高安美帆(たかやす・みほ)
俳優(エイチエムピー・シアターカンパニー所属)/巫女(堀上愛宕神社所属)8歳から浪速神楽をはじめる。近畿大学文芸学部芸術学科演劇・芸能専攻卒。卒業とともに同劇団に所属。2011年、ドイツ文化センターの奨学金を得て、ベルリン演劇祭・若手演劇人のための国際フォーラムに参加。2012年、takayasu kaguraとして再び神楽舞を舞いはじめる。ドイツ、ポーランド、イタリア、NYなどにてソロ作品を発表。現代演劇、朗読、神楽パフォーマンスなど幅広く活躍している。エイチエムピー・シアターカンパニーHP
樋口ミユ(ひぐち・みゆ)
劇団Ugly duckling旗揚げ以降、解散までの劇団公演全作品の戯曲を執筆する。OMS戯曲賞を最年少・女性初・2年連続大賞受賞。劇団解散後は座・高円寺の劇場創造アカデミー演出コースに編入。佐藤信に師事。アカデミー終了後はPlant Mというユニットを立ち上げ、コトバと空間と身体を駆使し、どんな場所でも劇的宇宙を創り上げることをモットーに緊張感あふれる独特の劇世界を創り上げている。現在、ラジオドラマや携帯小説などの執筆依頼を受け、高校生の演劇ワークショップにも精力的に活動。第38回放送文化基金賞受賞ラジオドラマ部門受賞するなど多方面でも実力を発揮している。
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