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【暑い夏11】見ること / 見られること 『鏡像』関係の自己と他者

2011年07月10日

F チョン・ヨンドゥ コンテンポラリー・ダンスって何?どんなことするの?そんな疑問に応える、毎年大好評の通称「サラダ・ボール・プログラム」。ダンスに興味ある方へのイントロダクション・クラスです。世界で活躍する講師による様々なスタイル、考え方のダンスに触れることができます。


prof_jungJUNG YOUNG-DOO チョン・ヨンドゥ (韓国/ソウル) 西洋的で高度なダンスメソッドと明確なコンセプトを併せ持つと同時に、東洋的に抑制された繊細な動きが彼の才能を裏付けている。Doo Dance Theater主宰。韓国新進気鋭の振付家である。韓国を拠点に世界各地で活躍する。’04年にはリトル・アジア・ネットワークでアジア各地を巡回。韓国でも多くの賞に輝く他、「横浜ダンスコレクション・ソロ&デュオコンペティション」にて、「横浜文化財団大賞」ならびに「駐日フランス大使館特別賞」を受賞、フランス国立トゥルーズ振付センターにて研修する。「踊りにいくぜ!」(’08年)『Hiroshima-Happchon』(’10年 松田正隆構成・演出)など来日多数。

ある春の日の東京。 カーラジオはフィル・コリンズの引退を伝え、ネットで新調したランニングウェアが届くこの日、ぼくは「恋はあせらず」をスピーカーから流れる音楽に合わせ口ずさんでいました。

 

3月11日の、東京の朝。

 

今年で16回目の開催を迎えた京都国際ダンスワークショップフェスティバル。ぼくにとっては2年ぶり2度目の「京都の暑い夏」体験となりました。びわ湖ホールでのコンタクトインプロヴィゼーションワークショップを皮切りに、フェスティバル本期間のクルト・コーゲルさん、室伏鴻さんのワークショップ全日程に参加させていただきました。
今回はワークショップ受講が主な目的だったのですが、もうひとつ、別のテーマがぼくにはありました。
絵画、彫刻、インスタレーション、写真や映像、音楽、文章など。古くからあるものや先進的なメディアまで、現代においては様々ものが表現媒体としてあるなかで、なぜ「ダンス」という「身体」を用いた表現をわれわれは試みるのか、なぜわれわれはダンスという身体行為を鑑賞しようとするのか。この、身体を「見ること / 見られること」の意味するものを探ることがもうひとつの、そして重要なテーマでもありました。ぼく自身人前でパフォーマンスをする機会を頂いたり、現在パフォーマンスイベントの企画に携わっていて、あらためて身体を提示する意義、表現として身体を見ることの真意について考えていました。
そうした中で、ある出来事とその影響がひとつの示唆を与えてくれたのでした。その出来事とは東日本大震災だったのです。

 

3月11日の午後、激しく長い揺れ。強風に煽られる木々のようにビル群は揺れ続け、鉄道がストップし、帰宅困難者が街道を埋め尽くしていました。
ぼくは幸い徒歩通勤だったので障害なく家路に就き、途中運送会社の集配所に寄って新調したランニングウェアを持ち帰り、そのまま皇居まで走りに行こうかなんてのんきに考えていました。ツイッターでは地震の直後から津波への警戒を呼びかけるツイートが多く見られ、鉄道各社の運行状況や帰宅困難者のための宿泊施設のアナウンスメントがタイムライン上を流れていました。
たしかに未体験の長く激しい揺れではあったけど、移動インフラの他はさしたる実被害も見られなかったので、やっぱりぼくは皇居へ行こうとしていたのです。 帰宅してテレビをつけてその思いは完全にくつがえされました。津波到来のショッキングな映像。東北地方日本海沿岸部は甚大な被害に見舞われていることを映像を見ることで知ったのでした。
それからの数日はテレビに張り付いて、福島の原発事故や日を追って明らかになる震災被害に暗澹たる思いを募らせる一方でした。スーパーやコンビニの物資も欠乏し、ガソリンスタンドには車の長蛇の列が並び、度重なる強度の余震もあって、不安が生活の上にのしかかった状態で日々を過ごしていました。
地震速報や事態の推移を見守るために、帰宅後は常にテレビをつけっぱなしにしていたのですが、深刻な状況に気は滅入る一方で、でもそんなとき、ふと外に出掛けて、談笑しながら歩く人々を目にすると、なぜかほっと心が和むのが感じられました。テレビでは悲惨な映像が流れ、深刻な顔のアナウンサーが被害報告をのべつ伝えているなかで、街行く人のあまりに日常的な姿が、凝り固まって縮こまった心をほぐしてくれるような気がしたのです。

D-3(コンタクト・インプロヴィゼーション)クラス 撮影:庵雅美
D-3(コンタクト・インプロヴィゼーション)クラス 撮影:庵雅美

3月の下旬に、江東区の森下スタジオでコンタクトインプロヴィゼーションのチャリティージャムが開催されました。東京でコンタクトインプロヴィゼーションのワークショップやフェスティバルを主催しているC.I.coさんの企画で、当初は海外から講師を招いて2日間のWSとその翌日に公演を行うものでしたが、震災の影響で講師の来日は叶わず、ワークショップ自体も開催が危ぶまれたなかでのイベントに、ぼくはワークショップ、ジャムともに参加。それはメディアが伝える情報に鬱屈した心と体を、ほんのひとときでもときほぐすことができればという思いからでした。そこでの身体を介した他者との交流は、知己の無事を実際に確認し合うということ、非常時という特殊な状況下からの解放をもたらしてくれるものだったのです。
特に印象的だったのは最終日の「サイレントジャム」という形式で、今回の企画で来日予定だった韓国のダンサーのひとたちと東京・韓国で同時刻に行う、一切の発語を禁じたジャム。震災で亡くなられた方への哀悼と被災地復興への思いを込め、言語を用いず身体での祈りを捧げたものでした。その言葉に頼らない身体のあるがままの姿、相互の接触、その穏やかで静謐な空間がもたらす作用は、自らが踊るとき以上に、「見る」側にまわったときによりいっそう、充足感や、喪われたり忘れていたなにかが補完されるような感覚を与えてくれたのです。

 

こうした体験を経て、「見ること / 見られること」の意味を確かめるにあたり、ぼくがその拠り所としたのはフランスの精神分析家ジャック・ラカンが提唱した「鏡像段階」と呼ばれる理論です。それは幼児がまだ自己の統一的身体像を把握できていないときに、鏡に映る自分の姿や、母親など身近な他者の身体を「鏡像」として見ることによって、寸断されていた自己の身体の統一像を獲得し、自我やアイデンティティを形成していく段階のことです。
鏡像段階論は主に幼児の発達期におけるものですが、こうした他者を映し鏡として自己を確立することは年齢を問わない普遍的な行いであると思うのです。この「鏡像」関係にある自己と他者、「見ること / 見られること」の意味を確かめるために、ぼくは京都の暑い夏のビギナークラスワークショップを見学することにしました。そして、そのことをもっとも明示してくれたのがチョン・ヨンドゥ氏によるものだったのです。

A-2(ダンスメソッド)クラスのヨンドウ氏 撮影:庵雅美
A-2(ダンスメソッド)クラスのヨンドウ氏 撮影:庵雅美

チョンさんのワークショップで特徴的だったことは、言葉を一切使用しなかったこと。彼はまず自らがデモンストレーションを行い、それを見た受講者が見よう見まねで同じ動きを何度もなぞるものでした。特に意識を置いていたのが呼吸。吸う・吐く、その息づかいを身体の動きと連動させ、床に寝た態勢や座った状態からの動きによるフロアワーク、そして立ち上がった姿勢から同じく呼吸やリズムを意識したステップワークで会場の端から端までを横列になった参加者が移動してゆくものでした。ときおりチョンさんはリズムの滞った参加者を手で押して転がしたり、体の動かし方を手取り足取り誘導し、呼吸やリズムを意識させることを体で示して指導していました。
床に這う状態のフロアワークから徐々に体が起き上がり、立位でのリズミカルでスピーディーなステップワークへという導きは、チョンさんがダンスにおいて重要視する重力と身体との関係、そして呼吸とリズムの強さ・速さを、その段階の推移によって参加者に体感させる非常に明快な構成に思われました。

 

そして最後のワーク。それまでのフロアを滑るような軽快なステップワークから一転、直立し静止した状態から穏やかな呼吸に合わせ、指先をそろえた手を前・横・斜め後ろへとかざし、前方へ歩みを進め、また静止して手をかざす。この一連の動きで会場の端から端までを移動するというもので、ダンス経験の有無や技量の巧拙を問わない、それぞれのあるがままの身体の美しさを引き立たせる静謐なワークでした。全員がひととおり終えると、チョンさんはおもむろに一人の若い女性の手を取り、今度は単独で同じワークをするように指示しました。そして他の参加者を会場の向かい側に着座させ、その動きを見るようにしぐさで伝えたのです。
静まり返った会場の中で、彼女はさきほどの動きを穏やかに丁寧になぞるように繰り返して進んで行きます。そこには緊張感は皆無で、温かな空気が会場の空間を満たしているような、とても美しいシーンを目にすることができました。やがて彼女がみんなのところまで辿り着き動きを終えると、次にチョンさんは少女の手を引き、同じくそのワークをひとりで行うように促しました。やや固い面持ちでスタート位置に就いた女の子は、呼吸とともに動き始めると緊張の色は消え、あどけなさの残る身体と表情で、見守られている視線のほうへと進んで行きました。それが終わると、チョンさんは「他にやりたい人はいませんか?」と身振りで問いかけ、誰も応じないのを見て取ると、今度は壮年男性を選んでワークを行ってもらいました。ひとり目の若い女性は身のこなしや落ち着きようからおそらくダンサーなのでしょう。ふたり目の少女はクラシックバレエを習っていて、3人目の男性はダンス経験のまったくない社会人の方でした。先述したように、このワークは経験や技術を問わないそのあるがままの身体の美しさを引き出すものであり、そのことをこの男性から最も顕著に感じたのでした。気負いも緊張も見られない素直な身体に微笑をたたえながら、男性は見ているひとたちの温かな眼差し受け止めて進んで行き、このワークショップは終わりを迎えました。

 

ディシプリンを経た女性ダンサーの美しさ、少女の瑞々しさあどけなさ、壮年男性の柔和な落ち着き。ワークショップの最後にチョンさんがセレクトしたそれぞれの人物、その身体、そうしたシークエンスの転調。そしてそれを多くの参加者に「見る」ように求めたこのワークによるエピローグは、チョンさんによる「マジック」を見せてもらったような気がしました。見学していたぼくは、会場の温かな一体感、その雰囲気に徐々に込み上げるものがあり、男性のワークを見ていたところで涙がこぼれてしまいました。なぜなら、なにより美しかったのは、ワークを行っていた3人それぞれの身体、その佇まいや表情が美しかったのはもちろんのこと、それを見守っていた他の参加者の表情や雰囲気が温かさや慈愛に満ちたものに思われたからです。
こうした素晴らしい瞬間を生み出した「マジック」の秘密とは、まず言語を用いなかったこと。このことによって受講者は「見る」ことを言葉による指導のとき以上に求められます。動きの指示が「言葉」によって与えられる場合、受講者は往々にして自分の内部にこもって言葉と身体の整合性を追いかけることに集中してしまい、外部へ開かれるべき視界が遮断されがちです。このワークショップでは、お手本であるチョンさんの動きを見る、他の参加者の動きを見る。こうして他者の身体・動きを自らのものとします。ワークショップ受講者は他者を「鏡像」として、自分が知覚できていない身体への意識、その連関を相互に照らし合い補完しあいます。おそらく参加者たちは各ワークにおいて、自分の身体、その内部に意識を向けること以上に他者の身体へフォーカスを当てることに重きを置いていたのではないでしょうか。
そして最後のワーク。年齢や性別、来歴などの違う、それぞれの対象者を「見る」ことによって、見ているひとたちの心身への影響の変化が明らかになったはずです。そして見ていたひとたちも、ただ見ていただけではないと思うのです。呼吸と連動したそのワークを思い起こし、単独でワークを行っている対象者の呼吸や動きに合わせて、見ていたかれらも同じように呼吸し、一緒に踊っていたと言えるのではないでしょうか。このことは「見られる」側であるワークを行っていたひとたちにとっても大きな影響を与えていたと思います。かれらが緊張にさらされなかったのは、見ていたひとたちが「観客」や「傍観者」ではなく、同じ動きを共に実践していたこと。お互いを照らし合うことによってその動きを共に構築していった相補関係にある仲間だったこと。そして仲間たちが見ていながらにして一緒に踊ってくれていた状態にあったこと。「見る」側「見られる」側が相互に「鏡像」関係として同じ空間を形成していたことが大きく作用して、あの感動的なシーンが生まれたのだと思います。

A-1(ダンス・メソッド)クラスのヨンドウ氏 撮影:庵雅美
A-1(ダンス・メソッド)クラス 撮影:庵雅美

震災によって、メディアで伝えられる情報によって、ぼくの心はいつしか不安定なものになっていました。でもそんなときに、道行くひとたちの日常的な佇まいに心安らぎ、東京でのサイレントジャムの光景に癒しや安堵を感じたのは、こうした他者を「鏡像」とした心身の平衡を取り戻す作用だったのではないでしょうか。
実際に震災に直面した東日本のひとだけでなく、メディアで情報を共有していた他の地域のひとたちも、なにかしら心の傷やトラウマといったものを抱えていたことと思います。びわ湖ホールでの先行ワークショップ後の打ち上げでフェスティバル主催事務局代表の森裕子さんは、震災によって来日キャンセルになった講師のことや、こうした時期の開催で参加者が集まるのかということを危惧されていました。しかし終わってみれば過去最多の参加者数でした。これまでの15年の積み重ね、そのことによる裾野の拡大があったのはもちろんのことですが、誰もが今回の震災によってなにかしら不安や問題意識を抱えていて、そのことの解消や解決の糸口を見出そう、こうしたときだからこそ、心を宿した生身の身体という存在であるわれわれが同じ空間を共有し、自己の心身環境と他者や社会という外部環境との関係性を改めて見つめ直す契機を求めて、多くのひとびとが集ったのではないでしょうか。こうしたことのひとつの答えを、ぼくはチョン・ヨンドゥ氏のビギナークラスワークショップに見出せたように思います。チョンさんはアフタートークの中で、今回のワークショップで言葉を使用しなかったのは主催事務局の坂本公成・森裕子両氏との相談によって決めたと語っていました。他のビギナークラスではそれぞれ違うアプローチで身体やダンスを探求し、そうしたなかでチョンさんのクラスにおいては言語を用いないという際立った手法が選択されました。それは「身体」がそこにあることをより明確にクローズアップするためだったのではないかと推測します。
フェスティバルの最後に、坂本公成さんは被災地支援団体への募金の呼びかけとともに、震災後におけるフェスティバル開催の諸々の不安や懸念を吐露され、講師陣・参加者への感謝を述べると、言葉に詰まり涙されていました。その光景はただ主催者の気苦労を垣間見たということだけではなく、3.11を経たわれわれみんなに共通する、痛みを受けた心とその再生への思いを共有する瞬間だったと思います。そして後を受けた森裕子さんが言われたように「ダンスの力」を再確認し、今回の貴重な体験を通過したわれわれがこれからさまざまな形で自己と他者、そして社会環境へと関わって行く意義を確かめられたのだと思います。

 

身体を持つわたしとあなた。お互いを映し鏡として照らし合い、みんなでつくりだすこの世界。 フェスティバルの主催・運営に尽力された方々、講師の方々、そして「鏡像」としてわたしをかたちづくってくれた多くの参加者のみなさんに感謝を。

山下健一(やました・けんいち) 金沢出身東京在住。社会人建築学生で、気がつけば身体に辿り着く。たまに踊ります。現在PLGINRT PROJECT(http://www.plginrt-project.com/)にて来年のパフォーマンスイベント開催に向け日々精進。京都は第二のふるさと。 

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