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うーちゃんとくまさんのダンス談義 2011年春 (上念省三)

2011年04月21日

足し算って、無理じゃない?

 久しぶりです。

 うん…別にサボってたわけじゃないんだけどね。ちょっとブランクが空いちゃったし、じょうねんさんが他の場所(『年間回顧アンケート 2010年』「シアターアーツ」第46号、2011年4月)で、2010年のベスト5を挙げているので、2010年のことは、それに代えておこうか。

 まぁ、順番をつけるのの嫌いなじょうねんさんのことだから、順不同だね。

 ・アンサンブル・ゾネ『Fleeting Light』2月、神戸アートビレッジセンター
 ・dots『カカメ』9月、栗東芸術文化会館さきら
 ・『since 1975 ポストモダン世代の舞踊家たち』(特に厚木凡人) 9月、日本大学藝術学部江古田キャンパス
 ・宮本妥子+北村成美『一打一身』12月、栗東芸術文化会館さきら
 ・ヤザキタケシ他『Revival』12月、ArtTheater dB Kobe

アンサンブルゾネ『Fleeting Light』
アンサンブルゾネ『Fleeting Light』撮影:阿波根 治

 dots以外はわりとベテランというか、新味が少ないような気がするけど。

 うん、でも、ヤザキタケシの『Revival』にふれて、『不条理の天使』を踊った下村唯、『スペース4.5』を踊った西岡樹里の二人の若手ダンサーが、ヤザキ作品を十分に咀嚼しながら自分の魅力もよく見せたと評価している。もちろんヤザキ本人のパフォーマンスが魅力的だったことは確かだけど、作品の魅力が、「作者=ダンサー」の魅力にだけ支えられているのではないということと、そこから派生することだけど、ヤザキの作品の人称ひいてはコンテンポラリーダンスにとって踊り手とは誰か、ということについて改めて考えさせられたことが、大きかったね。

 なるほど。再演の二作品のうち、『不条理の天使』は、ほとんど振り写しみたいな感じで、逆に『スペース4.5』は枠組みだけ渡して、個々のダンサーに任せた形だったと聞いているんだけど(「dance+」インタビュー「「Revival/ヤザキタケシ」を振返る」)、ヤザキならではの作品だと思っていたのが、他のダンサーでも魅力を発揮することが可能だというのは、興味深かったね。

 話は先走るけど、それと同じことが、KIKIKIKIKIKI「作品委託公演」(2011年3月6日、京都・アトリエ劇研)の北村成美作品『ラベンダー』、Monochrome Circus作品『怪物』(振付:坂本公成)でも試されたわけだよね。日本のコンテンポラリーダンスの作品が、振付として、長く残っていく可能性が出てきたことは、すごいことだと思う。

 『怪物』のほうは、国内でも海外でもいろんな人によって踊られたことがあるし、そもそも坂本の振付を佐伯有香が踊った作品だから、作り手と踊り手が分かれていた。でも、『ラベンダー』はヤザキさんの作品と同じように、作り手=踊り手で、作った人にこそ踊れるものと思われてたよね。

 そういう意味で、『怪物』を踊った花本ゆかより、『ラベンダー』の野渕杏子、あるいはその作者の北村のほうが付加は大きかったかもしれないね。そこには、コンテンポラリーダンスにとって、踊り手の問題に加えて、振付とか作品って何だろう、という問いも潜んでるはずだよ。振りさえ正確に写せば、作品は転写できるという考え方も、一方では成立するはずだけど、作り手=踊り手だと、どうしても、作者のバックグラウンドとか思い、また作品の精神とかいうような言い方をしがちになる。そこのところが、どうなんだろうかと。

 ヤザキさんも、作品によって継がせ方を変えたわけだからね。さて、アンサンブル・ゾネは、中村恩恵さんを客演に迎えたことで、岡登志子さんの動きの航跡が、非常に明確になった。それによって、作品に込められたものが、驚くほど、あふれるほどの強さでしみ出てきたわけで。おそらくここにも、岡さんの何ものかを継ぐことについての、強い思いが満ちていたと思うんだけどね。

dots『カカメ』
dots『カカメ』 会場:川崎市アートセンターアルテリオ小劇場 撮影:須藤崇規

 『カカメ』については、特に朗読された言葉(ジョルジュ・ペレック『さまざまな空間』から)を全体性の中にどう融け込んでいると判断するかは、評価が分かれるところかもしれないけど、それを不明であるとしてカッコの中に入れたとしても、作品全体の強度が少しも落ちないように思えて、すごく緊密なレベルの高い作品だったと思うんだよ。dotsは、アートユニットと自称しているように、ダンスはもちろん、演劇や美術や音楽や文学やというジャンルにこだわらない、芸術全般にわたる総合体であることを志向しているわけで、さかのぼれば初期のMonochrome Circusやダムタイプの流れを引こうとしているといっていいと思う。メディアミックスによって獲得しようとする総合性というものは、何らかの対象に向かっては拡散し曖昧化することも多いだろうけど、その危険を重々承知の上で、それを試行しているわけでしょう。『カカメ』では、特に佐伯有香や垣尾優といったダンサーが参加したことで、これまでよりもダンスをはっきりと中心に置いて観ることができて、少なくともダンスを見慣れている人には、見やすいものだったんじゃないかとも思う。

 そのことで、はっきりと中心ができて、コントラストが鮮やかになったということかしらん。

 きっとね。彼ら、そしてカンパニーメンバーの高木貴久恵らの身体の抽象性と存在感によって、必要十分な説得力を持つことができていたのがよかったんじゃないかな。

 『一打一身』のほうは、日本を代表するパーカッショニストの宮本とのコラボレーションで、北村はワークショップのメンバーを幻のような背景の群舞として使っていた。曲は、武満徹や、ジョン・ササス、中村典子、シドニー・ホドキンソンと、ごりごりの現代音楽。

 解釈とかいうよりは、対決という感じだったね。現代音楽もコンテンポラリーダンスも、負けず劣らずマイナーなジャンルだけど、その二つが合わさることで、非常に密度の濃い、求心力の強い充実した舞台になったように思った。

宮本妥子+北村成美『一打一身』
宮本妥子+北村成美『一打一身』 写真提供:栗東芸術文化会館さきら

 よく現代芸術のわかりにくさについて、一人よがりの思いつき的な実験であって、享受者のことを意識するに至っていないとか、単にレベルが低いというような批判を聞くけど、もちろん現在進行形である以上、そういう淘汰以前の玉石混淆であることは認めるにせよ、実験や高度な抽象性に対して、享受者(観客、聴衆…)が歩み寄り、覗き込もうという積極的な姿勢を示さなくなっていることもあるんじゃないかな。その点、この『一打一身』が試みたことは、パーカッションとダンスの間に、音と身体と言ってもいいけど、絶妙な隙間を作ることで、観客(聴衆)にそれを覗き込ませるようにしたことだと思う。

 なるほど。じゃあ、話を変えて、2010年の年度末、つまり2011年の1月から3月にかけて行われた公演の中で、メディアミックス的な傾向の強かった作品をいくつか挙げてみましょうか。

 困ったな…ぼくは本当はあんまりそういうの、好きじゃないんだ。古いタイプの生き物なせいか、ミニマムな傾向の表出のほうが好きなんだけどな。

 じゃあ、そこを何とか。苦手な理由みたいなことも含めてさ。

 うーん、ずいぶん敵を作っちゃうかも。

 まず年明け早々、バレエ・ダンサーの中田一史を中心としたGENESIS ART COMPANYによる『TRANSPARENT』(1月8日、神戸・オルビスホール)も、ダンス、映像、書、絵画といったジャンルの異なるさまざまなアーティストによるコラボレーションでした。SUGAR & SaltsやTHORNも参加して、ダンスの中でも、バレエを中心にいろんなジャンルのダンサーを集めていたように、いろいろな意味でトランスジャンルな作品、公演だったわけだけど、メインとなった中田さんの作品『Oral Stage』は、ちょっと求心性を欠いたような印象が残ったね。

 中田や石井千春の身体の存在感、特に石井のその場への立ち方は、深く吟味されたものだったように思う。身体だけで一つの世界でありうる人たちが集まっていたのに、それだけでは物足りなかったり不安だったりするのかなぁ…。身体を拡張するために、身体以外のさまざまなメディアを使うというのかどうなのか、よく意味がわからなくなっちゃう。特に、中央に振り落とされた白い布に上山光弘(書家)、marmellow(画家)が書いたり描いたりしていく終盤などは、書家の書く文字が「生」「解放」とかで、かなり鼻白んでしまったのは確かだね。もちろんそれは作品全体の構成に当たった中田の世界観によるものだっただろうと思うけど、そんな究極の一語みたいなものに集約させちゃう、しかも視覚的に出しちゃうというのは、作品の広がりをなくし、矮小化してしまうように思えた。

 結局「生の解放」ってことなのか、とかってわかったふうに限定されて、広がらなくなっちゃうよね。それが「わかりやすい」ということだと思うのかな。何か特定なメッセージを込めているのなら、その揺れをなくすための方法かなと思うけど。公演タイトルのtranparentからして、明白なとか透き通る、とかいう意味で、何らかのわかりやすさを求めていたのかもしれないし。

 わかりやすくということで、何でも約めきってしまえばそういうシンプルなものになるのかもしれないけどさ。言葉の意味の持つ強さというか、融通の利かなさというのは、ダンスというか身体の曖昧さや揺らぎを簡単に支配しちゃう。もちろん、言葉を無意味に使う方法もあって、それが持っている意味を相対化して、シニフィエとシニフィアンを剥離させちゃえば別だろうけどね。

 言葉や映像を使った作品が多かった『踊りに行くぜ!!』(3月4日、伊丹・アイホール)。4作品とも、言葉や映像が重要な要素だったり、物語性が大きかったりと、やはり身体以外のメディアや仕掛けを重ねることによって、作品の密度を高めていこうとする意図があったのかな。主催者のJCDNのコメント(「dance+」インタビュー「「踊りに行くぜ!! IIセカンド」の挑戦」2011年2月20日付)に、「面白くするためにできることはと考え」て、新機軸を打ち出してきた、というような説明もあったし。「面白い」とか「伝わる」ってどういうことなのか、考えさせられる公演でもあったね。

 いろいろな要素を詰め込んだ作品だったことについては、結局、メディアミックスといって、足し算で勝負しようとしてるっていうところに問題があるんじゃなかいかな。芸術が足し算をしようとすると、たいてい失敗するよ。掛け算や乗数や割り算、微分や積分を求めないと。

 数学のことはよくわかりませんが、大きく出ましたね。で、どうすれば、足し算じゃなくなるんだろう。

 たとえば村山華子の『カレイなる家族の食卓』が、食材のお葬式とかカレー作りとか、家族の擬似的な物語とか、ヤギにまつわる寸劇をうまい具合に組み合わせて、迷宮を覗き込む万華鏡のように世界を作ろうとしたことはわからないでもないけど、結局その筋書きに身体が乗っかってるだけで、その筋書きから予測できる範囲以上に身体が拡張していかないように思うんだ。

 でも、その筋書きを楽しむことはできる。

 もちろん。そういう意味では、呆気に取られるほど楽しい作品だったかもしれない。脱力するような物語、レベルの高い影絵、きれいなダンサーの上手なダンス、とてもきれいな映像、ビックリするような駄洒落。

 物語のあるダンスというと、ほとんどのバレエがそうだよね。この作品の中には、バレエの動きを解体したような、面白い動きも見られたように思うよ。

 でもそれがね、言葉に還元できるパロディである限りは、何ものかの枠を超え出ては行かないと思う。その解体自身のダイナミズムによって、物語自身が解体するような破綻が見たかったんだけどな。言葉を換えれば、「伝わる」とか「わかる」ということを重視すると、破綻や逸脱が生じにくくなるんじゃないか。それでは、作品の自律的転回が生れないよ。

 それは、ないものねだりなんじゃない? 彼女たちは破綻なんか求めていないよ。

 結局はそういうことかな。でもたとえばウミ下着の『私たちは存在しない、ブルー』は、一言でいっちゃえば生命の誕生と成長の物語、少なくとも前半はままごとの『あゆみ』(作・演出:柴幸男、11月、大阪・精華小劇場)みたいな筋の作品だけどさ、かろうじて『あゆみ』と違ったのは、後半の彼女たちの突進するような動きに制御不能なドライブ感があったことだと思うよ。そうなると、ダンスのテクニックの巧拙の問題ではなくなるんだけどね。結局、中西ちさとの構成や、笠井友仁のドラマトゥルクがどんなものであったにせよ、最後に中西、重里実穂、福井菜月の疾走し破裂する身体がドスン、パシンと残る快感がある。すると、「踊りを見たぜ!!」って思えるよね。そこが他の3作品とはちょっとテイストが違ってたところじゃないかな。一般論として、足し算を繰り返すことで、世界が膨張していくならまだいいけど、観客が受け取ることのできる世界の大きさというのはそう急には膨張しないから、世界のうちで身体が占める比率がどんどん小さくなっていくはずだよね。ということはつまり、メディアミックスを行なって、作品の強さを個々のメディアにおいても把持しようとすると、作品の世界自体を途方もなく大きくしないといけないということになるんじゃないかと思う。

 身体だけで100であることを前提として、全体がコントロールされた中で、それを嫌って溢れてどうかなってしまって100を超えようとする身体が好きなんだよね。村山作品で影絵が出てたけど、影絵つながりで、高嶺格構成の『Melody Cup』(2月12日、伊丹・アイホール)。冒頭で鳥や虫の影絵が出され、人物が影となって出てくるところは、とても美しくて、舞台の空気の定め方としてすばらしかったね。そこから後は、思いっきりたくさんの材料をぶち込んで、観客を混乱させていくような感じでした。

 確かに混乱したね。今言ってきたのとは逆に、構成自体があらかじめ逸脱や破綻を内包していたようで、それに出演者たちが十分ついて行けてなかったような気もする。初演(2009年)以後の背景をよく把握していないので、ピント外れかもしれないけど、この作品で展開されたいくつかのパートは、すべて完成度という点からだけ見ると、必ずしも高いものではなかったよね。舞台美術というか装置を除いてね。でも、本当に難しいんだけど、高い完成度を目指して低くとどまっていたのと、そもそもそれを目指してなかったのとでは、全然違うと思うんだ。

 自己紹介から始まって、舞踏スタイルから歌のフィナーレで終わる、という形式はきちんと持っていたのに、完成度を目指さないというのは、きっとポストモダンダンスについて考えるときにも聞いたことのように思うけど、完成度なんか目指せないようなメンバーによって、完成度を目指すのではなく…それなら、ここでは一体どんなことが目指されていたんだろう?

 たとえば最後、舞踏の公演でよくあるような、変な顔をして一人ずつ出てくるフィナーレを虚心に考えると、異物をポンと放り込んだわけだよね。他にも、セクシーを通り越したようなタイのディヴァさんの登場、タイのお坊さんの会話、タイ人観光客の身勝手に翻弄される日本人、スクリーンに映し出される言葉の奔流、へたくそな歌とオートハープ…、振り返ると、次々と異物が放り込まれ、違和感や驚きの連続なのね。それによって何度も覚醒させられ、流れに乗り切ることができずに断ち切られ、自分自身の感覚を確認する必要が生れてくる。わかったか、面白かったか、といわれると、ちょっと黙ってしまうけど、すごかったことは確かだよね。

 観終わって、あれだけモヤモヤと気持ち悪い感じだったのは、ちょっと珍しくて、でも何か大きなものが突っ込まれた感じがしたのは確かだったよ。いろいろびっくりさせられた、っていうことでは、近藤良平と黒田育世の『私の恋人』(2月10日、愛知県芸術劇場小ホール)もすごかったよね。メディアミックスというのではなかったけど、なんだかいろんな要素がごった混ぜになって、すごくとっ散らかって見えたにもかかわらず、終わってみればストーンとさわやかな印象が残ってます。『Melody Cup』に比べると、一つひとつのパートが愛らしかったりかわいかったり、何よりダンサーがダンサーだから(笑)。

 そりゃそうだよね。どんなグロテスクなことされても、近藤さんと黒田さんの動きを見ていれば、浄化されるみたいに納得しちゃうところはあるよね。男女のデュエット作品で『私の恋人』と題されていて、しかもこの二人となれば…というか、コンテンポラリーダンスで『私の恋人』というタイトルを成立させるためには、どんな仕掛けが必要か、こちらの想像を超え、裏切り、びっくりさせるようなことになるよね。今回主にびっくりさせてくれたのは、黒田さん。板を頭で割って口から血をだらだら流したり、近藤に向かって血を噴いたり、スイカ割でスイカに頭突きをしたり、客席に入って駄菓子を投げつけたり(じょうねんさんも「おしるこビスケット」を拾ってたね)、背広姿の紳士にストローを挿したヤクルトの5本パックを押し付けて飲ませたり、としたい放題だった。

 そんな前半があって、近藤さんが「あの人、基本的に自由なんです」とかって呟いた後、トイレ行くとか言って舞台に誰もいない時間が結構長かったでしょ? あれ、びっくりしたね。完全に放置された私たち観客!、って感じで、すごくスリリングだった。

 その後は、逆に近藤さんのテンションの高さに黒田さんがついていけない様子を見せてね。でもまた黒田さんが本領発揮っていうか、この辺は、二人の戯れあいのような押し引きがとても楽しくて、一見ドラマ仕立てのようでありながら、言葉がそこに介在するというのではなく、状態が共有されていてそのことから二人のこれまでのキャリアに根ざしたそれぞれの動きが、自由に個別にシンクロしている、としか言いようがない感じ。仕立てられた物語の筋を追う事は難しくなかったかもしれないけど、筋を一つの枠だと考えると、それは壊したり逸脱したりされるためにあるようだった。そのことによって、身体の生々しさ、動きのスケールの大きさ、二人の自由度が強調されることになったわけだから。

 簡単には説明したり納得したりできない行動が多かったよね。むちゃくちゃな二人なんだけど、でも何だかとても暖かいものがあるんだろうことも、わかるのね。近藤さんにもらったプレゼントの包みをぐしゃぐしゃに潰しちゃったくせに、その包みを持って、スカートの裾をつまんでキュートなワルツで踊る黒田さんは、ホントに恋する少女のようだったし。そして最後の『バードランドの子守唄』に乗せたソロバトルまで、すごく見ごたえがありました!

 うーちゃんもさっき言ってたけど、しっちゃかめっちゃかなのに、すごく一直線な勢いを持った作品だった、ということだろうね。 それと同じようなことを、contact Gonzoに感じることもあるよ。

 contact Gonzoは「CONNECT vol.4」にメンバー+αの別名義「the downhill」で参加した『無題』(1月23日、大阪・精華小劇場)、にせんねんもんだいドラムの姫野さやかとのコラボレーション『激しい対岸』(3月19日、ArtTheater dB神戸)、あと国立国際美術館の『風穴』展(3〜4月)の映像を観ることができたんだけど、そもそもダンスかどうか、ということもあるよね。

 うん。さまざまなメディア(媒体)を配置した身体による表現ではあるけどね、身体のぶつかり合いに代表ないし換言されるような、身体同士でなければできないコミュニケーション/コンタクトの貴重さにこそ重きを置いているということがよくわかる。特に『激しい対岸』では、姫野さんのドラムの他は、ごくシンプルな装置だけで、ビデオの投影もなかった(Ustは流してたらしいけど)。身体のぶつかり合いがいつにも増して非常に激しい、プリミティヴなパフォーマンスが展開されて、感動というか戦慄というか、恐怖を感じた(笑)。

 パフォーマンスエリアにいろんなものがころがってたけど、ビデオカメラは別にして、手作りの道具や衣裳だったり、プラグをアンプにつないだだけのシンプルな装置だったり、手で何とかするものが多いよね。身体の延長上にあると考えられると思うよ。

 うん。パフォーマンスの時間の中で展開されるコンセプトも、ごくごく素朴な遊戯だったりする。映像にしても、映像としての完成度を目指しているのではなくて、別の角度からの視角を提供することと、行為のさなかに臨場することを強調することになっているんだと思う。音にしても、行為の経過や結果が音に結びつく装置の出力だったりするから、ハプニングとして成立しているわけで、むしろ完成に逆行する力の大きさによって勝負するってもんだよね。

 複合するさまざまなメディアが、それぞれ完成度を目指していないというのは、面白いね。それは、行為のさなかに、行為者自身によって記録を行っているということを確認、強調するための装置でもあるよね。

 未来において遡るために現在を記録するということもあるだろうけど、現在を現在として、過程としてといってもいいけど、とどめられるものでないことをよく認識しているから、記録という行為を強調してるとも言えるのかな。使い切りカメラのシャッターチャンスを見ていると、殴った瞬間の顔を写そうとしていたり、セルフタイマーみたいになっているのか空中に放り投げてフラッシュが光ったりするじゃない、決定的瞬間を望んでいるのか、偶然のショットを狙っているのか、よくわからないところがあるね。どうせ記録なんかできない、って思ってるのかもしれないし。

 そういえば、contact Gonzoって、何を信じているのかわからない、つかみどころのなさを感じるよね。真面目なのか、いい人なのか(笑)、殴り合ってコンタクトすることで何かが生れると思っているのかどうかとか。予定調和的ではないし、一筋縄ではいかない。

 だから、見飽きないんだろうね。さて、「ダンスの時間」の話をしようか。

 3月公演で30回目を迎えました。2002年9月から8年半ですから、平均すれば年に3.5回ぐらいのスローペースでしたね。2月公演のサイトウマコト+関典子『鞄女』(2月16日、大阪・ロクソドンタブラック)は、すごかったね。以前、椙本雅子との組合せで発表されたものの再演。なんだか、あまりに完成度が高くて美しくて怖くて、何もいうことが見つからないんだけど。

 作品の「主題」みたいなものを言葉にしちゃうと、拘束的に愛玩される者の無邪気さが、拘束する者を圧倒していく、みたいなことかもしれないけど、作品の眼目は一瞬ごとの火花が散るようなエロティックな関係性を示す繊細な動き。最初、鞄のジッパーがひとりでに開いて、関の細い手が出てくるところなんか、怖くて怖くて(笑)。ダンスにあまり顔の表情は必要ないと思うことが多いけど、この作品に限っては、関さんのイノセントな笑顔が実に的確で、それがなかったら、作品が成立していなかっただろうな。

 吉福敦子の『Waltz』(同前)も、舞台を花だらけにするゴージャスな作品なんだけど、笑顔で鈍器を操るような、何だか得体の知れない怖さがあったね。3月のFUPRO-ject『僕と何かの物理的な行為の関係』(振付:田岡和己。3月23日、大阪・ロクソドンタブラック)は、縄跳びとかの遊びを交えて日常的な情景を作りながら、二人のダンサーがいつしかこの世のものではない感じに見えちゃうのが面白かったね。倉田翠と京極朋彦が初めて共演した『頼むから静かにしてくれ』(同前)は、京極のアジアのどこかの言葉もどきの機関銃のような不思議なおしゃべりと、舞台の上に架空に作られた日常的な空間を行き来する二人の姿が、ものすごく面白かった。

 こういう作品を観ていると、ダンスはどこへでも行ける、何ものであることもできる、と思っちゃうね。三好直美の『星空シェルター』(同前)について、本人は「戦争ごっこをする子どもの情景」と書いておられるけど、一人の兵卒の哀歌のようなリアリティが仄見えたよね。戯れがいつか現実になって、いつか向こう側に行ってしまうような恐ろしさ。なりふりかまわないようなひたむきなダンスが、無邪気さだけでなく、切迫感を見せたんじゃないかと思う。

 この作品は、音楽も動きも、「兵隊さん」をはっきりと表わしたもので、三好さんの回転を中心とした激しい動きが、何かに翻弄されているようで、迫力があったね。

 この公演でじょうねんさんが言ってたんだけど、コンテンポラリーダンスが歴史や事件、事実を扱わない、そもそも表現ということをしないのには、抽象性、喩法、言語、時間の問題など、そこに固有の特徴というか欠如があるんだろうと思う。じょうねんさんがそのことを考え始めたきっかけに、阪神・淡路大震災を演劇やバレエ、モダンダンスは扱ったのに、コンテンポラリーダンスは扱わなかったのはなぜか、というテーマがあって、この東日本を襲った大震災、そして首都圏を襲っている停電や原発の危機感がどんな影響を与えるのか、何と言えばいいのかな…興味深いとかいうのではなくて、一人称の問題として共有できないといけないね。

 でも、阪神大震災をきっかけに、生命観や世界観の根っこに基づく創作の方法が変わってしまったダンサーは多かったようだよね。作品のテーマとして表れるかとなると、そもそもコンテンポラリーダンスは言語化できるようなテーマを拒んできたようなところがあるから、そういうことではないんだろうと思う。阪神大震災後、生れてきたコミュニティダンスや、セラピーとしてのダンスといったものが、これからどんなふうな展開を見せるかも、問題意識として共有していきたいね。



うーちゃん:演劇や宝塚歌劇が好きな、ウサギ系生命体。くまさんに付き合って、ダンスも見始めた。感性派。小柄。

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くまさん:コンテンポラリーダンスが好きなクマ系生命体。最近、古典芸能にも興味を持ち始めている。理論派。大柄。


produced by 上念省三(じょうねん・しょうぞう)

演劇、宝塚歌劇、舞踊評論。「ダンスの時間プロジェクト」代表。神戸学院大学、近畿大学非常勤講師(芸術享受論実習、舞台芸術論、等)。http://homepage3.nifty.com/kansai-dnp/

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