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うーちゃんとくまさんのダンス談義 2009年残暑 (上念省三)

2009年10月27日

何に向かって踊っているの?〜天王寺舞楽、BABY-Q


 なんか、ダンスの公演が減ってない? 私たちが行かなくなったのかなぁ…。

 うーん、確かに、京都芸術センターの情報コーナーでも、ダンスの棚がちょっと空いてるよね。しかもよく見ると、ワークショップのチラシが多くて。小規模な公演や、地域のイベントと一緒になった出演機会が増えてるのかもしれないね。

 「踊りに行くぜ!!」は今年も全国いろんなところでやるみたいだけど、DANCE BOXやダンスの時間は?

 DANCE BOXは、KIKIKIKIKIKIの公演や日野晃のワークショップを新長田の本拠地でやってるし、神戸ビエンナーレの一環で元町商店街で近畿大学の学生を踊らせたり、水都大阪のイベントに参加したり、コミュニティとのつながりを深めようとしている。新世界にあった頃に盆踊りを復活させたりしたのから、ずっと一貫してると思うよ。ダンスの時間は、公演回数はキープしてるように見えるけど、サマーフェスがなくなったり、週末2日公演だったのが1回になったりして、実質は半減してるね。会場の回転率が上がって、なかなか日程が組めないのが実情らしいよ。「細々と続けています」と、上念さん。

 コミュニティとダンスっていうのは、どう思う?

 そもそもダンスって、コミュニティの儀式や広い意味のお祭りとかから生れてきたんだろうし、個人の表現や芸術性ばかり追い求めるモダン以後のダンスの状況から考えると、原点に戻る、本質的なことだと思うよ。だけど、大ざっぱな言い方になるけど、そういうたくさんの人々と一緒にお祭りをすることで得られる興奮や充実感や達成感と、芸術的なレベルの達成というのは、必ずしも同じじゃないと思う。表現者としていようとしているのかどうかということだけど。そこを気をつけておけば、いいことだと思うよ。でも残念ながら、「さぁ皆さん、ご一緒に!」というような踊り方を、コンテンポラリーダンスは捨ててきたんじゃないかと思うから、事は厄介だよね。その意味でも、DANCE BOXも「踊りに行くぜ!!」のJCDNも、舞踏を出自とする人が主宰しているというのは、納得できるよね。人々に開くための扉、アウトリーチするためのストロークを持っているんだよ。

 ピナ・バウシュもオハッド・ナハリンも、そういうストロークを投げてくるから、多くの人が引かれるのかもしれないね。

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 ちょっと目先を変えるけど、国立文楽劇場の「天王寺舞楽と高野山の声明」(9月12日)という公演で舞楽って初めて観たけど、かなり驚きました。天王寺楽所雅亮会という団体で、聖霊会舞楽大法要とかの四天王寺の行事で雅楽をする任務を担っているそうだから、仏教の儀式の「奏舞奏楽」の専門集団ということだよね。

ukuma1-1 大昔のコミュニティのフォークダンス(民の踊り)が技能集団によって専門化したというのじゃなくて、仏教と前後して入ってきた外来の文化が、そのまま仏教と同時にお寺などの儀式に残って、一般の人にもありがたいものとして大切にされるようになった、ということかな。雅楽は、宮中、南都・奈良、四天王寺・大阪の三方で伝承されてきたものだそうだけど、信仰の媒介となることで、コミュニティのダンスになったと言えなくもない。民にとって、音楽やダンスが信仰の仲立ちというか、聖性の象徴になるっていう、すごい機能を果たしてたみたいだね。天王寺舞楽は、天皇や貴族の庇護の下ではなくて、「浪花の庶民の信仰を集めた四天王寺やその地下の人々によって支えられてきた。それゆえに独自の故実や演出が自由に創造される余地が与えられていた」(プログラム解説から。小野功龍)んだって。宮中(宮内庁)のとかと比べてみたいね。この日の雅亮会という団体も、明治になって「雅楽を愛好する民間の人々の力によって…天王寺舞楽の再興を為し」たものだというから、同じ雅楽でも、ちょっとテイストが違うんでしょう。

 かかとで地面を叩くようにする、ロシアの踊りみたいな動き、かわいかったよね。笙、篳篥の音色も、すごいね、天上の音楽ってこんなのかと思ったよ。最初、「行道」(ぎょうどう)っていって、劇場の外の通路から、舞楽の人と声明の人がゆっくりゆっくり入って来るのが、音が近づいてくるっていうのはこんなにもドキドキするものかと、もうそこで感動しちゃってた。声明とのコラボっていうのも、びっくりするような取り合わせだけど、両方ともお寺で捧げられるものだから、相反するものではないわけね。とにかく初めてだったから、何から話していいかわからないぐらいだけど、特にびっくりしたのが、舞楽の「胡徳楽」(ことくらく)っていうの。演目解説(小野)でも「特異中の特異なもの」っていわれてます。

 パントマイムみたいなというか、セリフも歌も一切言葉はなくて、踊りというか身ぶりだけで、小芝居を演じるんだけど、舞楽のしぐさ、ふりを、演者が酔っ払うということでどんどん崩していくのが、ものすごくスリリングだった。パロディというか自己批評というか、舞楽の枠組みを外側から見て崩して笑いにつなげるという、とんでもない代物だったよね。文化的にかなり高度に洗練されていないと、ああいう批評化なんていう作業はできないと思う。

 うん、ホントに可笑しかった。大声で笑ってるお客さん多かったよね。こういうのが日本の民俗芸能に浸透したりしていくのかな。

ukuma1-2  これまた解説によると、「もともと唐楽曲で仁明天皇の承和年間に高麗楽曲に改作された…唐伝の、しかも民間に行われた散楽の一つではなかったかと推察される」ってことだから、もともと民俗的なものだったってことだよね。とにかく奥が深いというか、勉強しなきゃいけないことばかりだね。身体のムーヴメントとしては、かなり素人っぽいというか、神楽みたいにアクロバティックに練磨されていく方向性にはないんだなと思った。あえて素朴さのようなものを抱えていくことが、奉献の行為として意味があるのかな。

 うーん、わからないね。ただ、自己表現のためのものじゃないだろうからね。きれいさだけでいえば、そりゃ宝塚の『あさきゆめみし』で大鳥れい演じる紫上が「蘭陵王」を舞ったほうがきれいだったかもしれないけど。

 きれいに上手に舞おうとするような「さかしら心」があると、神仏は受け取ってくれないんじゃないの?

 そういう感覚を、コミュニティ・ダンスで得ることができたら面白いよね。自分が踊るのか、共に踊るのか、何ものかに向けて踊るのか、みたいな。

 何だかあんまり否定的な言い方になっちゃうといけないんだけど、BABY-Qの『[リゾーム的]なM』(8月28日、伊丹AI・HALL)で、わりとパフォーマンスっぽい、って変な言い方だけど、ダンスではない感じで来てて、途中で女性5人がダンスらしく踊り始めたときに、断然つまらなくなっちゃったことがあった。そういうのって、何だろう?

 ダンサーのダンスのレベルがいまいちだったってこと?

 それもあったと思うよ。あの公演では、開場から開演までの30分、東野祥子さんが佇んだり動いたりしていて、その鮮烈さから比べると、残念ながら本編のダンサーは一段落ちるような印象はあったよ。でもね、それだけじゃないような気がするんだ。

photo: waits
photo: waits

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 きれいに踊ることが、求められていたかどうかってことかな。舞楽で、きれいに踊ることを求めてなかったんじゃないかみたいな感覚と近いのかな。きれいに踊ろうとしてそれで精一杯になっちゃうと、世界と関係なくなるのかもしれない。

 きれいに、っていうと幅があって誤解されるかもしれないけど、東野さんがBABY-Qというカンパニーによって立ち現われることを目指しているものは、いわゆるきれいに踊ることで現われるきれいさじゃないよね。身体が動くことによって、その速度や傾斜や鋭さや、場合によっては速さがぎりぎりになって壊れそうな破綻に近いようなものが、これまでの作品では、何かが破裂する瞬間のような激しさとして現われてきたんじゃないかと思う。そのためには、踊りの動きに速度や鋭さや正確な形といった、いわゆる洗練された高度なテクニックが必要なわけだよね。だから、そのレベルの危うさがない動きだと、急に速度感が落ちてしまうから、停滞に近い退屈さを感じてしまったんじゃないかな。

 切迫した感じっていうか。これまでのBABY-Qの作品って、手がつけられないほど散らかった印象があったけど、今回のはセクシャルな関係みたいなところにわかりやすくすぼまっていく感じで、ワワワワワーッてのは小さかったね。お客さんに対して、サディスティックなまで、世界を強いていく感じでもなかったし。そういう散らばりや「きつさ」の中で、東野さんの身体が、まさにその世界そのもの、という感じで立ち上がってたと思うんだけど。なぜ、作品の中で踊らなかったんだろう?

 そんなの、わからないよ。でも、中で踊らないで、始まる前に、踊るというか存在することに、大きな意味があったんだと思うよ。世界には、外側というものが存在しているということや、その外側のものが内側では存在していないんだけれども支配しているような関係とか、見られているものとか、打ち捨てられたものじゃないかもしれないけど、そのこと自体が意味だと考えないと。

 でもね、そうだとして、そういう世界を、東野さんも入って作っていくというほうが、世界の大きさも出てくるし、もちろんお客さんだって満足するよね。世界を作るために、引いたりためらったり遠慮したりしちゃ、もったいないよね。

 見るものでありたいというような欲求があるのかな。きたまりさんも、次回のKIKIKIKIKIKIの公演では、自分は出演しないそうだし、白井剛さんも去年の京都芸術センターの「blue lion」では出演しなかったよね。別に目新しい出来事ではないと思うけど、ダンサーの主体の問題、作品との距離感の問題として、ちょっと注目していたいね。

photo: waits
photo: waits

『天王寺舞楽と高野山の声明』 2009年9月12日 国立文楽劇場
出演:天王寺楽所雅亮会 真言聲明の会

『[リゾーム的]なM』 2009年8月28日 アイホール
構成・演出・振付・出演:東野祥子 
出演・振付:ケンジル・ビエン かなたなか Pee 目黒大路 横谷理香 山本泰輔 多田汐里 石井則仁 JOHN(犬) 石橋源士 吉川千恵 荒木志水 矢島みなみ 鈴木拓朗 井田亜彩実

うーちゃん:演劇や宝塚歌劇が好きな、ウサギ系生命体。くまさんに付き合って、ダンスも見始めた。感性派。小柄。

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くまさん:コンテンポラリーダンスが好きなクマ系生命体。最近、古典芸能にも興味を持ち始めている。理論派。大柄。

produced by 上念省三(じょうねん・しょうぞう)

演劇、宝塚歌劇、舞踊評論。「ダンスの時間プロジェクト」代表。神戸学院大学、近畿大学非常勤講師(芸術享受論実習、舞台芸術論、等)。http://homepage3.nifty.com/kansai-dnp/


天王寺楽所雅亮会「第43回雅楽公演会」
2009年12月1日 18:30 梅田芸術劇場メインホール
一般¥4000 / 学生¥2000

お問い合わせ:天王寺楽所雅亮会(06-6641-0084)

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