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ニブロール『no direction。』 (亀田恵子)
2009年05月22日
いろいろな言いかたで「時代」が語られている。「高度情報化社会」「格差社会」「都市への一極集中化」「農村部の過疎化」「多様化」「均質化」「少子高齢化」などなど、世の中が「○○化」という言いかたで、どんどんまとめられていくように思える。確かにインターネットは普及し、これまでとは違うかたちでの格差も生まれてきている。選択肢は選り取りみどりと錯覚を起こしそうだ。だが、そうは言いつつどれも似たりよったりなセンスが氾濫しているようにも思える。俯瞰的に見れば確かにそうかもしれない。けれども、それだけでは言い表せない何かによって時代は動いている。
2010年に開催が決まった国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2010」のプレ企画公演として、Nibrollの『no direction。』が上演された。「あいちトリエンナーレ2010」では「都市の祝祭 Arts and Cities」というタイトルが掲げられ、(1) 美術を中心とした現代美術の先端的な動向を国際的な視野で紹介すること、(2) 都市の祝祭としての高揚感を演出すること、(3) 現代美術を基軸にしつつ、オペラやダンス、音楽などのパフォーミング・アーツ(複合舞台芸術)にも積極的に取り組む、という3つの柱が基本方針とされている。今回、「あいちトリエンナーレ2010」のプレ企画公演に彼らが選ばれたのは「あいちトリエンナーレ2010」がめざす「複合芸術」が、彼らの作品によって体現されているからだろう。
Nibrollはダンスカンパニーの形態をとっているが、ダンサーを固定せず、振付家、映像作家、衣装作家、舞台美術家や音楽家などが作品ごとに参加し、主に舞台空間を中心に作品を発表している「ディレクター集団」だ。彼らによってつくられる作品は、ダンス、映像、衣装、美術などが文字通りぶつかり合うようにしてせめぎあい、新たな表現世界を開拓してきている。ダンス公演としては初めての愛知上演(08年には矢内原が個人で取り組んでいるミクニヤナイハラプロジェクトで演劇作品『3年2組』を上演)だったが、観客からの期待はとても高かったようで、2日間の公演は両日ともチケット完売となった。
今回のNibrollの公演に際し、会場となった愛知県芸術劇場小ホールでは、映像の持つ魅力を最大限に高めるため、客席を減らすなどの対応をして臨んだ。この会場でのダンス公演としては異例の座布団席までが用意され、プレ企画公演の華やかな幕開けに相応しい熱気で満たされていた。幕などが取り払われ、舞台と観客席がフラットになった会場設営。冒頭、舞台奥にかけられた幅の広いスクリーンにはCGによってユリのような植物が豊かな自然の中で芽生えては花開き、やがてしおれていく様子が展開された。これからはじまる都会的な狂騒の映像シーンの連続とは、双を成す印象的なオープニングだった。
作品前半はダイナミックな動きは少なく、私たちの日常の動作にも似た動きが展開された。歩く、止まる、腕を回す、首を傾げるなど、動きの種類としては日常から逸脱した動きは見られない。だが明らかにそれらの動きが日常的な動作と異なっているのは、そのエネルギーの圧縮度だと言っていい。例えば1日分のエネルギーが数分の間に押し込められたような感覚だといえばいいかも知れない。Nibrollのダンサーたちの踊る身体からは、常にいろいろなタスク(仕事や職務のようなもの)が課せられているようなプレッシャーを感じる。そのタスクが自分の外から来ているのか、内側から生じているものなのかはわからないが、押し寄せる重圧を身体に押し入れようとしながらも入りきらずに漏れ出してきている……。そんな印象を受けるのだ。人は強い怒りを覚えながらそれを押しとどめようとすると、身体が震え出すことがある。矢継ぎ早に指示を与えられると緊張して表情がこわばることがある。それらの震えや緊張感が舞台上のダンサーたちに見られるのだ。両腕を激しく振りながら舞台上を連なって歩くしぐさは、走りだしそうな速度のギリギリまで上げられるが、走り出すことはない。何かに規制されているかのように舞台の端まで行くとキリッと方向転換をして、同じ場所を往復しているばかりだ。ぶつかりそうでぶつからないすれ違いは更なる緊迫感を生み、本来なら無邪気と見えるはずのキャッチボールなどの遊びのしぐさも、強制的に執行されればそれは痛々しい行為に見えてくる。「キレそうな」状態が長く続く中、ときおり発せられる叫び声や奇声に近い笑い声は、それら無意味なルーチンへの怒りの臨界点なのだろう。映像、音楽、次々と着替えられていく衣装、あらゆることが過剰に、速度を急ピッチで上げながら展開されていく。
私たちの生きている「今」は、さまざまなことが猛スピードで進む時代だと言われている。例えば、数ケ月前に発売された新機種の家電などが、あっというまに旧モデルになったりする出来事は、ごく日常的なことだ。新しい技術がどんどん手に入り、私たちを楽しませてくれる一方で、それは作り出す側にも利用する側にも更なる加速を押し進めている。作り手が限られた時間の中で熾烈な競争に勝ち残るには、どんどん自分たちの能力や効率を上げていかなければならない。次々と押し寄せる課題を超人的な速度で解決していかなければ「間に合わない」のだ。一方で、「新しいもの」を手に入れることに快楽を覚えた利用者は、訪れる「NEXT」を待ち望んで地に足がつかない。「現在」と「向かうべきゴール」との間で時間は圧縮され、私たちはその狭間で押しつぶされるように暮らし、今に満足を覚えることが出来ずに時間を浪費しているように感じられる。
次々と着せかえられる衣装、激しい音楽に翻弄されるようにユニゾンで踊るダンサー、めまぐるしく移り変わる映像、それらが眼前に広がったとき、観客は時代の中で起こっている「今」を追体験しているのかもしれない。
作品中盤、カーテンやソファと繋がったままの衣装でダンサーが登場するシーンがある。語尾を長く不自然に伸ばした言いかたで、1人のダンサーが「おじいちゃんが餅を喉に詰まらせて死んだ」エピソードを独白するのだが、このシーンではあらゆるものの境界線が曖昧な状態だ。興味深いのは、「ソファと人/カーテンと人」といった物理的な繋がりが現実になると不気味で不自然な光景を生み出すのに対して、「餅を喉に詰まらせて死んだなんて恥ずかしくて人に言えない」という母の言葉によって日常の中に易々と取り込まれていく「死」の自然さだ。作品の中ではダンサー同士の身体を激しくぶつけあわせ、決して境界線が消えない(人と人は1つになれない)ものだと痛切に確認をくり返しているように感じられる振付家の矢内原だが、人と人との関係性や、生と死といった精神的なものについては、あるいは境界線が消せるのだという希望を抱いているのかも知れない。後半、矢内原がデュオで縫いぐるみを奪い合うように踊ったシーンは、それまでの過密な動きから質を変えて、ややゆるやかな空気を取り入れていた。動きの質のバランスという点では必要なシーンだろう。しかし、欲を言えばもう少しエッジがほしいところ。「鋭く切れるようでいて甘い空気が漂う」そんな仕上がりになれば、人の繋がりへの切ない想いがより明確に打ち出せたように思う。
ラストシーンは舞台上からダンサーが舞台袖に消えて、広大な自然の中を広がってゆく美しい植物の映像が展開した。それまでの都会的なビル群や自動車がラインを強調した映像と比較すると、どこからでも自由に生まれ出て原形をとどめず土にかえっていく植物には、矢内原が希望として残そうとした「あいまいさ」が感じられた。喧噪に満ちた現代の都市生活も原初には生と死が一体となった世界があり、その姿こそが未来へと繋がる希望……、そんなことを想わされる美しい映像だったように思う。その後に続いた一方向へと向かって歩き続ける膨大な人の群れの映像は、そんな植物との哲学的な双璧だ。
「○○化」という言葉でまとめあげられていく世の中では、私たちはそこに共通して立ち現れる「規則性」に目を向けがちではないだろうか。ある事象と事象とを並び比べて統合していくことは、社会全体を把握するときには必要なことかも知れない。だが、それは決して物事の本質的な「境界線」を取り払うことにはならない……。作品の中でダンサーたちが何度も激しく身体をぶつけながら確かめ合っていたシーンを思い出しながら、私はそのように推論してみたい。Nibrollの作品から感じたのは、見えている事象の裏に潜んでいる生命の営み=一方向へと突き進んで終わっていくという命の捉え方ではなく、生と死が共存しながら円環しているダイナミックな生命の再発見だったように思う。そのダイナミズムにふれたとき、圧縮された「今」から、私たちは少しだけ解放されるような気がするのだ。(25日鑑賞)
『no direction。』 振付・出演:矢内原美邦
映像:高橋啓祐
衣装:矢内原充志
照明:滝之入海
音楽:スカンク
美術:久野啓太郎
制作:伊藤剛
出演:足立智充 たかぎまゆ 黒田杏菜 原田悠 橋本規靖 福島彩子 陽茂弥
主催:あいちトリエンナーレ実行委員会
企画制作協力:愛知県文化情報センター
制作協力:Precog, alfalfa
亀田 恵子(かめだ・けいこ)
大阪府出身。工業デザインやビジュアルデザインの基礎を学び、愛知県内の企業に就職。2005年、日本ダンス評論賞で第1席を受賞したことをきっかけにダンス、アートに関する評論活動をスタート。2007年に京都造形芸術大学の鑑賞者研究プロジェクトに参加(現在の活動母体であるArts&Theatre→Literacyの活動理念はこのプロジェクトに起因)。会社員を続けながら、アートやダンスを社会とリンクしたいと模索する日々。
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