2009年04月30日

 横浜市開港記念会館(横浜市中区)で1月31日と2月1日の両日、ダンスに携わるアーティストによるフォーラム「We dance」が開催された。「We dance」は、アーティスト、振付家などが主体になり、開港記念会館内の複数の部屋を会場として、ダンスパフォーマンス、ワークショップ、トークセッションなど16企画・27プログラムを開催。出演・企画したのは、ダンサー、振付家、演出家、音楽家、映像作家などさまざまな分野の専門家。主催は「Offsite Dance Project」(岡崎松恵代表)。「Offsite Dance Project」はこれまで昨年、横浜臨海都心部で開催された横浜トリエンナーレ2008の関連ダンスプログラム「idance 80’s」の企画や、東京・大田区で公園や電車内でパフォーマンスを行う「多摩川アートライン2008」のパフォーマンスプログラムなどを企画してきた。観客はこの「We dance」では1日有効のチケット(1999円)で自由に館内を回遊できる仕掛けとなっていた。

 2日間のイベントではあったが、私自身は遠隔地からの参加(観劇)でもあり、2日目のプログラムのうちのいくつかを見ることができた。以下見たものについて少し感想を書きたいと思う。横浜市開港記念会館に着くともっとも大きなスペースである講堂でちょうど中村恩恵『Thousand way of kneeling』のパフォーマンスが始まったところであった。以降、きたまり『女生徒』(振付・出演:きたまり [14:30〜])、岡田智代 遠距離文通ダンス『ん、または、す』(企画・構成:岡田智代/振付・出演:岡田智代(横浜)、安川晶子(大阪) [15:30〜])、神村恵『Seeing is believing.』(振付・出演:神村恵 [16:00〜])、山下残『2002 横浜滞在』(振付:山下残/出演:山賀ざくろ、山下残 [17:00〜])から最後のクロージングフォーラム(19:00〜)まで重なってしまって見られなかったもの以外はすべての公演・プログラムを見ることができた。
090401_nakanishi_zan2 この日見たなかで圧倒的に面白かったのは山下残『2002 横浜滞在』だった。いかにも山下残らしいコンセプチャルな作品だが、山下のとぼけた味がやはりどこかペーソスを感じさせる山賀ざくろの個性とうまく組み合わされて、ダンスとして実験的でありながら、決して難解でも退屈でもなく、娯楽性も持ち合わせたエンターテインメントに仕上がった。タイトルの通りに山下が2002年に横浜に長期滞在して現地制作し横浜STスポットで初演した作品の7年ぶりの再演である。

 ステージの後方で山下がテキストを朗読して、山賀が舞台の前面でそれに合わせて関係したような動きをする、というもので、山下はこれまでの作品で言葉と動きの関係、最近では振付と即興の関係などダンスとは何かについての思索を独自に作品化してきたが、なかでもこの『2002 横浜滞在』はこの後、その方論論が『透明人間』へと引き継がれ、『そこに書いてある』『せき』という言葉と動きの関係性をモチーフとした3部作へとつながっていくことになる記念碑的作品であったが、再演は今回が初めてとなった。

 山下の読み上げるテキストには「今日××した」というような横浜滞在日記からの抜粋のような部分、「右手を上げる」「左足で丸を描く」といったような、直接的に動きを指示するもの、さらにこれは『そこに書いてある』などにもよく出てくるのだが、例えば「キャベツを刻む」というような行為を描写したもの。これらは舞台後方で横浜ベイスターズの野球帽をかぶって片手にマイクを持った山下によって語られる。その前の舞台前面では山賀がテキストに呼応するような動きをしているのだけれど、山賀の動きを山下がコメントを入れているのか、あるいは山下の言葉に山賀が従って動いているのか、どちらなんだろうと思って見ていると、2人の言語(動き)のテキストは互いに相前後して、つかず離れず微妙な距離感を保ちながら作品が進行していっているのが分かり、共通(類似)の内容を持ちながら、それぞれが独立に進行していっているのだということが分かってくる。

090401_nakanishi_zan11 バレエのような特定のメソッドにより訓練されたダンサーではないから山賀の動きはお世辞にもダンスとしてきれいとは言い難いのだが、年齢の割には身体はよく動くし、自己流のノウハウを積み重ねて自分の踊りを確立してきた人だけにほかの人にはないようなユニークで面白い身体語彙も多く、それが山下のコメントと合わさるとちょうどふきだし付きのギャグ漫画が動き出しているようなイメージになって、そこが面白い。

 目立たないように舞台後方にいるといっても、単なるナレーションではなく一緒に舞台に登場しているだけで、長身でぬぼーっとした山下は目立つ。個性も強いので、前にいるダンサーは技術よりも、山下に負けないような存在感が要求され、その意味では山賀は適任であった。さらに山下のコミカルな部分もある振付が山賀のパフォーマーとしての魅力を引き出しており、実りの多い組み合わせだったと思う。一度で終わるのはもったいないので、どこかで再演してほしいと思う。

090401_nakanishi_kitamari21 きたまりの『女生徒』も彼女のパフォーマーとしての魅力が発揮された作品だった。太宰治の短編『女生徒』が原作ということだけれど、そのテキストをそのままダンスにしたというよりも、小説のイメージを彼女なりに咀嚼して、現代の『女生徒』像を提示したというところだろうか。最初、HIPHOPの音に乗せて、HIPHOPっぽい動きを繰り返す。「HIPHOPっぽい」とあえて書いたのはHIPHOPとしては音楽から動きがずれていたり、ヘタレな動きだったりして、要するにお世辞にも「うまい」とか、「切れがいい」などという動きではない。むしろうまく踊れていないのではないかとの疑念が頭の片隅をよぎるのだが、その微妙さが見ていて面白いのである。

 ただ、ここでの表現にビミョー感があるのはアフタートークの席でHIPHOPの専門家であるKENTARO!!が「あの踊りは音楽からずれているようだが、意図的にそうしているのか、それともそうなってしまっているのか」と質問していたが(笑い)、おそらくは狙いとして明確にそうしているというよりはあれが精いっぱいというか、ああなってしまっているように思われることだ。ところが、きたまりが凡庸でないのは振付家としてはそれを分かっていて、そのうえで踊れないことを作品として利用しようとしている節もあるところだ。HIPHOPの動きを取り入れたコンテンポラリーダンスはフランスなどでは「イポップ」と呼ばれてかなり以前からひとつの流行りのようなものとなっているし、日本でもKENTARO!!のようにそちらのジャンルから参入してくるダンサーも現れたりしているけれど、海外のものなどを見る限りはそれほど面白いものとなっておらず、それほど簡単なものではないことが窺える。きたまりに関していえばここでのHIPHOPはその動き自体をコンテンポラリーダンスに取り入れようとしているというよりはセーラー服を着ておさげをしたどちらかというと古風な乙女のイメージとHIPHOPという今風のダンスが交錯するところに記号性として「現代」というものを浮かび上がらせようとしているような意味合いが垣間見られて、そういういう意味ではその踊りも「普通の女子高生がHIPHOPみたいな踊りを自分の部屋でしている」というような状況の一種の引用のようなところがあり、ダンスとしてのHIPHOPを見せようという意図ではないようにも受け取れる。

 そういう両義性は後半の部分でも受け取れた。ぼそぼそと脈絡のないような独り言を言いながら、動き回る。セリフと動きが微妙にずれていくところとか、それがどちらも暴走しだして壊れていくところとかが面白いが、どこかチェルフィッチュを思わせるようなところもあった。試演として行われたなにわ橋駅のフリースペース「アートエリアビーワン」での公演でも「これはチェルフィッチュを意識してるのか」と個人的に問いただしたし、この日のアフタートークでも同種の質問が出ていた。

090401_nakanishi_kitamari1 だが、結論から言うと無意識のうちにこんな風になってしまったもので、チェルフィッチュの岡田利規や前述の山下残のように言葉と動きの関係性を十分に思索したうえで出てきた表現というわけではない。「なんだか分からないけれど、気がついたらこうなっていました」という類の表現なのだ。そういう意味でいえば、現在のところ少しもの足りないという気分ともう少し突き詰めていけば一層面白い作品になりそうだという期待とが交錯するところで、そこの詰めがまだまだ甘いということは言える。それでも前半・後半のどちらの部分も半ば無意識の領域で「アンコントロールな身体」という最近のコンテンポラリーダンスにおける重要問題に迫っているように思われるのが興味深いところなのである。

 関西からこの企画にわざわざ出かけていったことの目的は山下残、きたまりの2作品を見ることだった。だが、この日興味深く感じたのはこの2作品と東京側の3作品がきわめて対照的に感じられたことだ。実は以前から関西のダンスと東京のダンスの最近の傾向に明らかにずれがあるのではないかということを感じていたのだが、この企画でもそれを再確認させられたところがあった。その典型が神村恵『Seeing is believing.』だと思われた。これは私の偏見かもしれないが、東京では彼女への評価が非常に高く、ノー文句で絶賛する人も少なくないようなのだが、この人の作品の面白さが私にはよく分からない。
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 分からないというのは的確な表現とはいえないかもしれない。この作品ではスニーカーとペットボトルを舞台の下手上手の前奥にそれぞれ置いて、方形の空間をつくり、その空間において対角線上を歩いたり、片足を上げながらケンケンしたり、ダッシュのポーズをしてみたりといういくつかの決められたプロトコルをできるだけ正確に繰り返す。音楽が舞台上にかかることはあるのだが、動きがそれに合わせてシンクロするということもない。つまり、音楽とのシンクロあるいは微妙なずれによって生まれるグルーヴな感覚や動きの面白さなど従来のダンスにおいて重要とされているような要素は周到にここからは排除されている。舞台上で彼女がやっていることの意図は明晰に感じられるし、それは確信犯としてそうしているのだということは彼女の作品から伝わってくる。そういうアプローチとしてのクオリティーの高さは評価する必要はあると思うけれど、問題はだからといってアウトプットとしての作品が面白いという風には私にはどうしても思えないことなのだ。

090401_nakanishi_okada11 これは自分の感覚としては単色で塗りつぶしたような抽象画が面白いという風にはどうしても思えない、あるいはよさが分からないというのと似ているところがあるかもしれない。関西のダンサーである安川晶子が参加してはいたけれども、岡田智代×安川晶子の遠距離文通ダンス『ん、または、す』という作品も「どこが面白いのか」と思ってしまう作品だった。こちらも2人の動きにはメールによってやりとりしたいくつかの決められたルールがあって、そのうえで初めて出会った2人がそれを実際に一緒にやってみるというようなコンセプトがあったらしいのだが、作品だけからではそれがどういうルールなのかが分からない。コンセプトが不可視であるというのが山下残の作品などと比べた場合の大きな違いで、加えて、安川は本来はばりばりに踊れるタイプのダンサーであるのにそういうことはあまり反映されないような作品となっている。そういうことも含めてどこをどんな風に楽しんだらいいのかの焦点がうまく定まっていない作品と感じられたのだ。

090401_nakanishi_nakamura1 一方、最初に見た中村恩恵『Thousand way of kneeling』はコンセプトというよりはダンススキルを前提とした作品で、本来はそれゆえの動きの生み出す快感のようなものが作品の魅力の源泉となるはずだが、この日実際に舞台上で見せられたのは本当にとりあえず即興してみましたという習作の段階で、作品を作る前の素材の粘土を見せられただけの印象。そういう段階のものを見る機会はそれほど頻繁にあるわけではないのでそういう意味では得難い機会ではあったが、今の状態で作品としてどうこうといえるようなものではない、というのが正直なところであった。中村恩恵がここで見せようとしたような表現はこういう風なラフな形での試作ではなくて、細部にいたるまで彫琢された時初めて本当の姿を表すのではないかと思った。
 神村、岡田らの作品が私にとって興味深いのは彼女らのダンスがなぜ退屈に感じられるのかを自問自答していくなかで、私にとってのダンスの魅力のプライオリティー(優先順位)が逆に浮かび上がってくることだ。

 私のダンスに対するプライオリティーはまずなんといっても魅力的で斬新かつ面白い動きの実現というところにある。それは山下残のようにコンセプチャルな作品においてさえそうなのである。例えば山下残作品の場合、山下が振り付けるといっても振り移しをするわけではなく、実際には初演の映像を山賀に見せて、そういうような動きで動いてほしいという風な注文により、前橋在住の山賀が独自に練習して振りを身につけたうえで、本番前に横浜で何度か合わせて細かいところを調整する、というような形で作品の制作がされた。それゆえ、これは山下の作品とはいえ動きのディティールの処理はほぼ山賀の裁量に任されており、つまり山賀の作品といってもいい。そういう意味で2人のコラボレーションのような作られ方がしている。それゆえ、山賀の動きに魅力がないと作品として面白く見られるという風にはならないわけだ。その面白さは前述したような作品のコンセプトの面白さと山賀の動き、山下の舞台上でのエンターティナーとしての才能など複数の要素が絶妙のバランスで絡み合って、初めて成立するということがいえると思うのだ。

 神村の場合にはこれだけ彼女の舞台を面白いという人がいるという事実からすれば私の目がそのなにかを捕らえそこなっているというようなことがあるのかもしれない。だが、少なくとも私にとっては彼女の作りだすムーブメントはこの企画の前に見た横浜STスポットの『配置と森』も見てみたがいずれも首を少し曲げた後、また正面を向くというようなミニマルな動きの繰り返しに終始し単調に感じられる。ミニマルな動きと舞台上に置かれた美術(この日の場合はスニーカーとペットボトル)によって空間と時間を構築していくコンセプトは類似しており、全体の印象も私にとってはほぼ同様。だからこそ舞台上で展開されるのがそれだけでどこかそれ以上の刺激がないと私にはダンスとしては退屈なのだ、ということはこの2つの神村作品を続けて見たことで一層はっきりしてきたのである。

(写真:松本和幸)

 
「We dance」
2009年1月31日(土)・2月1日(日)11:00-21:00
横浜市開港記念会館の全室(講堂・会議室)
http://www.offsite-dance.jp
主催:Offsite Dance Project
企画:「We dance」企画室 *Offsiteメンバーと有志によるオープンな企画チーム
後援:横浜市開港150周年・創造都市事業本部
助成:横浜市先駆的芸術活動助成
特別協力:急な坂スタジオ
協力:STスポット、スタッフ塾、LUFTZUG、ZAIM Cafe、StudioGOO

以下のサイトの「We dance アーカイブ」に当日のドキュメントがアップされています。
ぜひご覧下さい。http://wedance-offsite.blogspot.com/
 
中西理(なかにし・おさむ)

1958年12月愛知県西尾市生まれ。京都大学工学部卒業。在学中は京都大学推理小説研究会(京大ミステリ研)に所属。ちなみに綾辻行人は1学年下。会社勤務のかたわら、年250本程度の舞台を観劇(そのうちダンスは100本程度)。仕事の関係で大阪に移り、現在面白い舞台を求めて週末は大阪・東京を行ったり来たりの生活である。最近は現代美術にもはまっています。
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/
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