2011年12月1日

『ASYL』 DANCE×MUSIC×MOVIE!―JCDNコンテンポラリーダンス作品創造シリーズ vol.5―
宣伝美術撮影:清水俊洋
宣伝美術撮影:清水俊洋

 京都の街は、昼間と夜とではずいぶん表情がちがう。地図に示された通りを進んでいるつもりでも、気づけば曲がるべき筋を間違えて、知らない名前の通りに入り込んでいたりする。朱色の大きな鳥居の前にゆれる小さな灯篭、大きな銀杏の木、薄闇から突如としてあらわれる見知らぬ通行人・・・まるで1つ1つの要素が異次元への入り口のように、人を惑わせるような気がする。ただ、こうした現実と非現実が交錯するような道のりは、これから扉を開こうとする作品と、どこか地続きのような不思議さを感じて楽しい。今回の『ASYL』は、京都公演・東京公演とも「寺」で上演されるという。寺もまた、昼と夜とではガラリと表情を変える場所だろう。その場に座を設けるというのは、「昼と夜」「現実と非現実」といった異なる次元の間(あわい)に現れる境界を刹那、垣間見せることのようにも思える。
撮影:草本利枝
撮影:草本利枝

 今宵の客席として用意されていたのは、見事な庭を臨む畳敷きの部屋。畳数はわからなかったが、縦×横:障子4枚×16枚分ほどの広さがあり、空間としては鰻の寝床(間口が狭く、奥行きが長い)といった感じだろうか。障子の前には赤い毛氈(もうせん)が敷き詰められ、センター部分には壇が設けられていた。さらに壇上には毛足の長いピンク色の絨毯(じゅうたん)が置かれているのだが、この絨毯の様子がややケバケバシサを感じさせ、怪しげな雰囲気を醸し出していたように思う。

撮影:草本利枝
撮影:草本利枝

 開演時間となると、三味線を手にした和服姿の西松布咏が登場し、先ほどの壇にあがった。落ち着いた声で、小唄に込められた遊女の想いや、江戸時代の遊郭のエピソードを語っては三味線を聴かせるという趣向だ。そこに西松は演劇的な要素も重ねていった。例えば、懐から取り出したキセルに火をつけて一服し、吸い口を観客に向けて手渡すような仕草をしてから三味線を弾きはじめるシーン。これは、遊郭を訪れた男たちに対して、遊女がはじめにするあいさつをなぞったもので、観客を遊郭に迷い込ませるような演出だ。西松は三味線を弾き、小唄をうたうだけでなく、この作品全体のストーリーテラーとして重要な役割を担っていたように思う。歴史の向こうにいる遊女たちの物語を、語りと三味線・小唄で徐々に浮かび上がらせるような構造といえよう。西松が紡ぎ出した場の中に、歴史と現代の時間が曖昧にまじりあったころ、髪をオールバックに撫でつけ、ヘンに趣味の悪いジャンパーを着た男(今村達紀)が西松の背後の障子(障子の向こうは渡り廊下になっている)を飛び飛びに開けていった。そこへ寺田みさこがゆっくりと登場する。渡り廊下をゆっくりとしたスピードで歩いていくのだが、障子の閉じたところには彼女のシルエットが映り込み、開け放たれた場所には実体が垣間見える。背後からの強い照明が幾重にも複雑に連なるシルエットは、現実と非現実が混ざり合うような印象があって引き込まれた。       
 作品中盤、西松が中央の檀上から部屋の奥へと座を移すと、寺田がゆっくりとした動きで部屋の中へと入って来た。黒い袖なしのドレスをまとった寺田は、重心を低めにとり、探るように腕や脚を空間に伸ばし入れていく。この動きは、じっくりと場を確かめている作業のように感じられた。この時間は西松によって語られた時間と、彼女の身体が溶け合うための時間だったのかも知れない。ストーリーを引き継ぎつつ、その方向性をきちんとダンスで繋ぐことに成功していたように思う。

撮影:草本利枝
撮影:草本利枝

 今回の作品は「DANCE×MUSIC×MOVIE!」という3つの要素のコラボレーションが掲げられているのだが、「映像」ではなく、「映画」としている点に注目してみたい。映画というのは映像の一種ではあるが、その中にストーリーが内包されている。しかし、映画が物語として自己完結してしまうと、コラボレーションの余地がなくなってしまうということもあり得るだろう。『ASYL』では次のような演出が、映画の閉じた物語性を開き、新たな表現として生まれ変わらせていたように思う。大きな1つは、西松にストーリーテラーとして時空を繋ぐ役割を担わせたことだろう。次に、空間の特性をうまく使って虚と実をうまくブレンド(障子の使い方など)したこと、役者仕立ての男を介入させることで演劇的な要素を映画に続く糸口としたことなどがあったように思う。こうしたていねいな構成を重ねた中に、効果的に散りばめられた映像(化粧をしていないような素顔に近い寺田が、やや不安げな表情で煙草を吸うシーンや、寺の本堂と思われる場所で彼女がピンクの絨毯をまとって足を魅せるシーンや、艶やかな和蘭獅子頭という金魚が泳ぎまわるシーンなど)が一体となって「新しい映画の在り方」として昇華していたように思う。終盤近く、夜の商店街を必死に逃げ惑う寺田の姿は、これ自体が単独のサスペンス映画のようでありながら、この場でくり広がられた物語を背景にしてみることで、既存の映画鑑賞とは異なるおもしろさがあるように思った。虚と実がいくつも入れ子になったような構造は、西松が語って聴かせてくれた遊女の処世術「嘘と誠の間に身をおくこと」に近いのかも知れない。

撮影:草本利枝
撮影:草本利枝


 ところで、今回の『ASYL』について、飯名は次のようなことを述べている。

‐‐よく考えてみれば、この作品だって、作者は男の僕であって、男特有の女性へのロマンティシズムがある。それは女性からみれば「ホント、いい気なものよねぇ」「分かってないわねぇ、もう」という具合なのである‐(当日配布された『作品遡行』著:飯名尚人より)–

邦楽で唄われる曲も、男の都合で描かれた女性像であるという。男を快く迎え入れ、やさしく夜をともに過ごしたり、愛しい人を思って堪え忍んだりする。飯名の描いた女性像も、退廃的な雰囲気で煙草をくゆらせたり、ギリギリなところで世の中を渡っていく危なさを漂わせたりするし、艶っぽい目線でこちらを見つめてきたりする。なるほど、これは女の都合で描かれていないなあ、と思う(笑)。日常的に使う商品から、働き方、婚姻関係の在り方(夫婦別姓など)に至るまで、現代は女たちにとって無限の選択肢が並んでいる時代だといえるだろう。実際、女たちは自分が女でいることも選択肢の1つとして扱っているのではないかとさえ思う。男の前でかわいい無垢な女でいることも、ちょっと危険な香りを漂わせる悪女でいることも、すべて選択肢の1つでしかないのだ。妄想を膨らませる男を前に、さまざまな選択肢を楽しむ女。だが、ふとしたときに『あれ?コレがもしかして本当の私?!』なんて混乱もしつつ。

撮影:草本利枝
撮影:草本利枝

 今も昔も、男と女の関係は、虚と実の間で果てのないドラマをくり広げるのだろう。それこそ、永遠に・・・。ややこしいったら、ありゃしない。まったくね。

亀田 恵子(かめだ・けいこ)
大阪府出身。工業デザインやビジュアルデザインの基礎を学び、愛知県内の企業に就職。2005年、日本ダンス評論賞で第1席を受賞したことをきっかけにダンス、アートに関する評論活動をスタート。2007年に京都造形芸術大学の鑑賞者研究プロジェクトに参加(現在の活動母体であるArts&Theatre→Literacyの活動理念はこのプロジェクト参加に起因)。会社員を続けながら、アートやダンスを社会とリンクしたいと模索する日々。

『ASYL』(アジール) 東京公演 三味線・唄:西松布咏 
振付・ダンス:寺田みさこ 
作・演出・映像:飯名尚人
出演:今村達紀
友情出演:オランダ(和蘭獅子頭)
日時:2011年12月10日(土)17:30〜11日(日)17:00
会場:池上實相寺
公演情報
作品情報
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