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ジョン・ノイマイヤー『人魚姫』石井潤『game』 (古後奈緒子)

2009年05月14日

人間に出会いに劇場へ

 2つのバレエ団の公演を連続して関西で目にする機会があった。いずれも高度に様式化された伝統芸術に、表現やコミュニケーションといったその根っこのところで触れさせてくれた。「目からウロコ」の鑑賞体験を、併せてお伝えしたい。


人魚姫
2009年2月28日-3月1日 兵庫県立芸術文化センター
振付:ジョン・ノイマイヤー
出演:ハンブルグ・バレエ団


ノイマイヤーが『人魚姫』!?

 1973年よりハンブルク・バレエ団を率いてきたノイマイヤーは、フォーサイス、キリアンらと並び、黄金期のシュトゥットガルト・バレエ団が輩出した現代バレエの牽引者だ。独創的な振付でバレエの伝統を新たにしつつ、人間の深みを描きだすことで定評がある。その彼が、アンデルセン生誕記念とはいえ、一般には子供向けと受けとめられているメルヘンを取りあげた。しかもタイトルロールは自由な脚を持たない。身体技術としてのバレエの肝にかかわる困難な素材に、彼はどのように取り組んだのだろう。

ファンタジーを求める心

 ノイマイヤーの翻案の見所の一つは、アンデルセンの伝記的資料から作者と物語の内的な結びつきを取り出してみせたところにある。その結びつきに、観客はプロローグで次のように導かれた。

 水平線が上下に波打つ舞台空間に、まず白い壁とそれに向かって佇む男が現れる。壁に大書きされた文字に目を凝らすと、アンデルセンが親友エドヴァルドに宛てた手紙である。そこには深い湖に喩えて、自らの心の奥深くへ誘う美しい言葉が連ねられているのだが、続いてエドヴァルドが結婚して去ってゆく光景が展開されると、どうやらアンデルセンは期待を裏切られた模様。というか、痛いほど相手にされていない。そして、祝福する人々との間にも、ビミョー……な温度差、距離感を醸し出している。

 このように、人との交わりにまつわる切望と失望と疎外感が、観客もろとも詩人をその創作世界、つまり人魚姫の住まう水の底へと連れてゆく。その導き手となるのが、落ちる涙を象るかのようなマイムだ。印象的に揺らめく手つきに目を奪われた観客は、その行方を追って、孤独の重みに身を任せゆっくり沈んでゆく詩人の姿を見守ることになる。そして、空間の高さを二分した舞台美術で描きだされるこの道行きの先、心=海の奥底で、彼は揺らめき漂う人魚たちの中から一番幼く無垢な者を見つけて何かを託すのだ。ここから、おなじみの物語とその作者の思い出がつづら折りとなり、観客はアンデルセンの心の内と外、『人魚姫』の中の海と陸を行き来する。

写真提供:MIN-ON
写真提供:MIN-ON


舌の身振りとしての歌/言葉

 子供の頃手にした『人魚姫』を切ないお話と覚えておられる方も多いだろう。ノイマイヤー作品においても、残酷にも思われる姫の道行きは、伝記から抽出されたアンデルセンの傷心を余すところなく反復するかのように見える。けれども、ファンタジーとそれを生み出す人間の抱える現実を結びつけたことで、バレエ『人魚姫』が得たものは何だろうか。文学的な深みや社会的な意味の広がり? もちろんそれもてんこ盛りだ。けれどもそれが腑に落ちるのは、人魚姫の身体のあり様、変わり様があってのこと。それらが周到に重ねられたイメージや空間のつくりと結びついて、「あぁ、これを舞台作品で見て良かった!」という瞬間を準備する。

 たとえば先の場面の後、身をくねらせる海の生き物にも似た詩人の手の運動モチーフは、幻想の海で自由を謳歌する人魚たちの、ゆったりと揺らぐ腕に引き継がれることになる。それはまた、詩人と人魚姫が得意とする表現のすべの結びつきを暗示してもいる。一方、気になる脚のほうは、袴状の薄衣に包まれ、動いても移動を助ける程度。やがて人間になることを切望した姫は、美しい歌声の代償に脚を得はするのだが……。

写真提供:MIN-ON
写真提供:MIN-ON


写真提供:MIN-ON
写真提供:MIN-ON


人と歩みをともにできる/できない脚

 童話にあった舌切りこそ具象化されなかったが(いや、されていたっけ?)、人魚姫が脚を得る場面は、シンボルとリアリティーをぎゅっと凝縮させていたように思われる。ここで人魚姫は、袴を暴力的にはぎ取られるや、水中で自在にしていた身体技術を一切合財封じられる。そしてその瞬間、演ずるダンサーは、優美な動き、つまりバレエの技術とともに磨かれた全身のコーディネーションさえも失ったように見えたのだ。ここでのダンサーの身体の秩序の変化は、姫が生きる世界の転換をも感じさせる。とともに、遠い国の伝統様式で描かれたお伽噺を観るという観客の構えを、瞬時に吹き飛ばすほどのショック効果をもたらした。

 こうして主人公は、不具の赤ん坊のような身体で人間界に放り出されたのだが、車椅子にのっけられたり、無理矢理ダンスを踊らされたり、果ては王子の結婚の介添えの列に並ばされたりと、さんざん不能な身体を晒すことになる。それにしても、この王子は善人らしいやり方でひどいことをするやつだ。人魚姫、可哀想! 見守る者はこんな風に痛ましさ、それを眺める疚しさを覚えるが、異形の身体イメージは主演ダンサーの演技と相まって、同情や感傷を寄せつけないある種の遠さを備えてもいる。そうこうするうちに、このような身体との対比でダンスというものが、人魚姫と詩人がその外に身を置く、人の輪で生きるすべだということもおぼろげに見えてくる。

 実際、本作で澱みなくダンスのステップを踏んでみせるのは、詩人を除く陸の人間ばかり。それは、他の人間と足並みを揃えることのできる、いわゆる健常者、そして凡庸な人の群れに属する証しのようにも見える。つまり、滑らかな歩行とダンスのステップは、社会や社交と呼ばれる人の集まりで承認を得るのに前提とされる身体技術、そして孤独な2人が憧れつつも獲得できなかったものなどを、シンボリックに表しているようなのだ。

写真提供:MIN-ON
写真提供:MIN-ON


牢獄からの脱出。でもあくまでも、アンチ・ハッピーエンディング

 そうしてみると、陸で人魚姫の身体から醸し出されていた閉塞感が、(バレエの様式性と比べてではあるけれど)やけにリアリスティックに胸に迫ってきたのも頷ける。それは演出上、後半はじめに狭い部屋でもがく姫の様子に明示されてはいた。けれども、エピローグで人魚姫が詩人ともども美しい腕の動きを復活させたのに溜息をついた時、そこに至るまでずーっと抱えていた、胸のつかえのような感覚にふと気づかされた。実に後半たっぷり、演技とはいえ腕にも脚にも制約を受けたプリマバレリーナは、まさに自らの身体が牢獄であるかのような存在のあり方を体現していたのだ。この牢獄はもちろん、フィジカルな障害によるとは限らない。本作で腕と脚が象徴していたような、自己表現と社交のすべを備えない身体というのは、現実社会においてまさにそんな感じなんじゃないだろうか。

写真提供:MIN-ON
写真提供:MIN-ON


 というわけで、俗世での成熟、すなわち愛する者との交歓を成就できなかった「小さな海の処女」は、宴席でテロを起こすチャンスを振って、無垢なまま詩人とともに人間の世界を去る。開放感と輝かしい感じさえ漂わせた2人のゆらゆらマイムに見とれつつ、人の世におけるハッピーエンドではない解決を舞台芸術ならではのやり方で準備したノイマイヤーの手腕と人となりに、再び長〜い溜息が漏れた。

 蛇足ながら、一夜の体験への投資としては人生最高値に震えながら手にしたチケットだったが、行って、良かった、と思う。


 
 

石井潤ダンス・パフォーマンス『葵上 aoi no ue』『game』
2009年3月5日-6日 京都府立府民ホール”アルティ
振付・演出:石井潤
出演:石井アカデミー・ド・バレエ


『game』を創った人物は?

 「今、気になるもの。石井潤!」

 出演者一同が順に列から前に出ては即興を交えて名乗りする、いわばダンサーの顔見せのようなアントレで、夏目美和子が高らかにそう告げた。見終わった後であれば、観客も立ち上がってともに快哉を叫んだことだろう。

 京都で石井アカデミー・ド・バレエを主宰する石井潤は、ダンサーとして振付家として、国内外での輝かしい経歴を持つバレエマスターだ。創作歴には、古典的な文学作品や歴史上の前衛作品がずらり。今回も石井は新作として、三島由紀夫による能の改作『葵上』を取りあげ、濃厚な人間ドラマを描いてみせた。一方で、それに続く『game』は、近代能とあらゆる点で好対照をなし、いわゆるアカデミックなバレエに対する先入観すらも軽やかに覆した。絶妙の組み合わせで差し出された舞台舞踊におけるコミュニケーションの2つの極の、『game』のほうに焦点をあてて振り返ってみたい。

撮影:清水俊洋
撮影:清水俊洋


これぞディヴェルティスマン!

 『game』は、2007年11月に京都芸術センターで初演され、好評を博して今回の再演となった。プログラムの記載どおり、これといった筋があるわけではない。芝生を敷き詰めた遊び場っぽい空間に、ソロ、デュオとアンサンブルをバランスよく配し、1人でいるとき、2人になったとき、集団で動くときの、あるあると頷きたくなるような、あるいはしんと寄り添いたくなるような人間の諸相が、表情豊かなマイムやダンスで描きだされる。演ずるダンサーたちは、コスプレさながら、場面ごとに目にも鮮やかな衣裳を切り替え、普遍的、個性的なキャラクターの間を行き来する。そして全編を貫くメレディス・モンクの歌声が、憧れ、喜び、ノスタルジーといった、誰もが身に覚える感情のひだとともに、劇場空間をまるごと震わせる。

 中でも目を見はったのは、ダンサーたちのはじけっぷりだ。与えられる役や振付をダンサーが身に纏うものに喩えるなら、たいていは美しくデザインされた衣裳をぴったりさりげなく着こなしているもの。でもこの作品では至るところで、「お気に入りの勝負服!」といったうきうき感が溢れ出す。そしてときに、1点ものの鎧すらはち切れんばかりにがんばってみたり。かと思えば裸になる場面、つまりアントレの自己紹介の段では隠れようとしたり、潔く脱いだり、脱いだフリだけしたり。そういった折りにダンサーのパーソナリティーが見え隠れするのも、石井の与えた役や振付が、出演者1人1人のこなし方までを意匠にこめた仕立てだったからだろう。さらにその効果は、ダンサーたちを眺める観客にまでおよぶ。

撮影:清水俊洋
撮影:清水俊洋


舞台と客席の間にひらけた遊戯空間

 例えば『葵上』では、役や振付と隙間なく一致したソリストたちに視線を奪われ、観客は前のめりになっている。そして、デザインや着こなし具合を”正しく”理解したり評価したりしなければならないようなもやもやを、望みもしないのに背負いこんでしまったり。もちろんそういった集中は、バレエ鑑賞における挑戦、醍醐味でもある。それが『game』の始まりとともに一転。衣裳をころころ変える人びとがふわっと空間に散らばっただけではない。ふいに役の顔が消えてこちらにダイレクトにとんでくるかのように見える笑みや目配せ、あるいは見せかけの愛嬌を含む仕草に、ぽん、と肩を叩かれたように体がほぐれてくる。このような観客の構えへのはたらきも含め、第1部から引き継がれた劇場での身体と視線の関係を流動化させる演出が、『game』には随所にちりばめられていた。アントレとその前振りは序の口で、客席から登場した下駄履きの蛮カラ学生にのけぞった観客も、中盤には笑い声を返すようになってゆく。

 その中で、見ていて踊りたくなってしまうようなチャーミングな振付に引き込まれた方もいたことだろう。筆者のお気に入りは、アイスクリームをお行儀悪く舐めながらカップルの間に割り込んでゆく女の子や、胸に巻いたタオルをずり落ちないように直すところを見せつけてから、晴れやかにバスタブの泡と札束を飛び散らす女性の下りなど。かっこいい振りは真似たくなるたちだが、バレエでそんな大それたことは、まず思ったりするものではない。そこには仕草と見事にとけ合った動きそのものの魅力に加え、観客の視線を明らかに意識したコケットリーな演技があった。おそらくそれによって開けた、ダンサーの表現と観客の視線がお互いに押したり引いたりし合える遊戯と社交の場のようなものに、身体技術を共有しない者をも誘う力があったのではないか。

撮影:清水俊洋
撮影:清水俊洋


人のカラダを見るってことは…

 さて、作品の面白さや魅力をお伝えしようとすればこのくらいなのだが、最後に一匙の戸惑いを一つ。

 実は先のお色気たっぷり……というか”けれん味”溢れる入浴シーンには、「う〜ん、楽しい、参った!」とうなってしまった。楽しくてなんで参るのかといえば、劇場で自分がダンスに向けるまなざしの矛盾をつかれたような気がしたからだ。おそらく、バレエが堕落したと伝えられる19世紀後半、シリアスな芸術とエンターテイメントが住み分ける前の舞台舞踊も、このような生に溢れていた。ここでいきなり19世紀云々というのは、ビクトリア朝風(?)の衣裳やバスタブと居並ぶ奇妙な小道具からの連想にすぎない。それ以前に、今日の劇場で束の間生み出された社交や遊戯の空間を支える関係は、100年以上前の西欧のそれとは比べようもない。ただ、今の時代のアーティスティックな、あるいはアカデミックな舞台ではあたかも存在しないかのような、俗な関心やそれを払いのけようとする力が、踊る人と見る人の間にはしっかりはたらいているのだということ。そして、ダンスを純粋に鑑賞したいといった欲求も、それを通して人間に出会いたいといった憧れを経て、”不純”であり得るしがらみと紙一重の社交空間に通ずるという事実に、さりげなく向き合わされたような気がしたのだ。

撮影:清水俊洋
撮影:清水俊洋


 ちょうど読み返していた本に、ラテン語で「生きる」ということは「人の間にいること」を意味したと紹介されている。以前は受け流してしまったこの言葉は、2つのバレエ作品と響きあって、1つの実感をかたちづくった。人の間で数百年生き続けて来たバレエと、それを生かし続けるマイスター。その職人技には恐れ入りました。

 

古後奈緒子(こご・なおこ)
dance+メンバー。元窓口。舞踊史研究・批評。稼業は語学にまつわるなんでもかんでも。

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