2009年08月9日

前回のVol.02「松山大学ダンス部!」をお読みいただければわかるように、松山大学ダンス部にすっかり惚れ込んでしまった私たちは、松山のことをもっともっと知りたくなってしまっていました。
そんな大会最終日、会場内をうろうろしていると、あのステキな松山大学Tシャツ着た数名を発見。声をかけてみました。するとそこには、噂の「監督・大野八重子」さんの姿が! 「どうもどうもはじめまして」という挨拶もそこそこに、即座にその場で申し込んだインタビューも快諾してくださいまして、噂に違わぬ度量の広さをしみじみ感じました。そして、本当に多岐にわたるお話をじっくりと聴かせていただいたので、長いけど、読んでみてください。ちょっと感動します。

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聞き手:森本アリ・森本万紀子・編集長メガネ
インタビュー構成:森本万紀子

松山大学ダンス部の歴史
大野 時間軸でお話すると、まず最初の2~3年は、私が関わってないんです。その頃面倒をみて下さっていたのが、実は、愛媛大学の牛山眞貴子先生なんです。
 愛媛大学には教育学部があって、学校教育の中の「体育」、その中の「ダンス」……、というふうに教育とダンスが非常に繋がった現場として機能してきたんです。そもそも愛媛大学の前身は「師範学校」ですからね。戦前から専任のダンスの教官がおられて、教育とダンスを繋いで来られました。
 愛媛大学のダンス教育が大きな転機を迎えたのは、この神戸のコンクールの審査員もされてる牛山眞貴子先生が、大学院出たてのバリバリ24歳ぐらいの時に教育学部保健体育のダンスの教官として着任されたことだと思います。モダンダンスもやるけれども、時代の最先端の新しいダンスもやろうと。これはかなりショッキングでインパクトのあることで、例えば当時だとヘソ出してジャズダンスみたいな……。すごく元気な魅力に溢れた先生で。
 その時私は教育学部の学生として牛山先生とは出会ってるんです。牛山先生は、楽しいダンス、元気なダンス、活力のある生き方ってことをエネルギッシュに伝えて、ダンスの好きな先生のタマゴをたくさん作られた。その人たちが採用試験を受けて、愛媛に散らばって行きますよね。上手・下手ではなく、ダンスが大好きで元気な若手の先生が、愛媛県にはたくさんいるんです。

アリ・マキ・古後 おお、素晴らしい~。

大野 それに加えて、愛媛大学ダンス部(現在の愛媛大学Dance AZ.)は、20年以上前からすでに単独公演もしていたんです。ある時、その愛媛大学のダンス部員の子の友達が、松山大学にいたんです。当時松山大学にはダンス部がなかったので、牛山先生に相談にのってもらっているうちに、「愛好会でもとにかく立ち上げて、やっていけば? 面倒みてあげるし、うちと一緒に練習もしたらいいから」というようなアドバイスや協力をしていただいた、というようなスタートだったと聞いています。
 その頃愛媛大学ダンス部は部員が20人くらいいたのかな。一緒に練習させてもらって、松山大も部員がちょっとずつ増えてきて、定期公演に一作品だけ友情出演で出させてもらったりとかしてる時期が数年あって。そうこうしてるうちに、じゃあ松山大チームでも単独公演を、ちっちゃいとこでいいからやってみようという話になった。平成元年の話です。
 この年から私は、牛山先生の研究室で私設助手みたいな仕事をしていたところで、先生から「松山大学の子たちが今度公演を立ち上げるんで、その面倒を少し一緒に見てみない?」、と声をかけていただいたんです。少しずつ関わっていくうちに、牛山先生もお忙しいので両方は大変だから、だんだん私が関わる比重が大きくなっていきました。第1回目の定期公演が17年前です。

アリ 神戸の「全日本高校・大学ダンスフェスティバル」の立ち上がりと同じような時期ですね。

大野 神戸のフェスティバルには第2回から出場してます。最初は何年も予選が通らなくて。当時はまだ愛好会だったので、練習場所すらほとんどなかったんです。松山大学は私立大学なので愛好会・同好会・部活というヒエラルキーが非常にはっきりしていて、部にならないと、練習もロクにできないわけです。だから、人数増やして同好会にし、3年ぐらいで部まで昇格しました。定期公演を小さいところでやりながら、神戸も出続けて、3年目ぐらいの時にやっと神戸の予選が通った。

コンテンポラリーダンスへ
古後 多分17年前は、特に教育系の大学などでは、モダンダンスが主流だったと思うんですが、それがこういったスタイルになっていくには、何がきっかけになったんでしょう。

大野 まずはテレビや雑誌の情報から入っていきますよね。NHK教育の「芸術劇場」の影響とか(笑)「ダンス・マガジン」とか。フランスのヌーベルダンスが紹介されたりしてね。
 やっぱ松山にいると新しいダンスは来ないので、東京とか大阪まで観に行ってました。一つ観に行くとチラシを見てまた行きたくなって、また別のものに行くっていうことが連鎖的に起きて、「なんかちょっと新しいダンスの動きが始まってるぞ、やったことないような、見たことないような動きがあるぞ」、とぼんやりと感じてました。それで、まぁ言うたら真似してみたりとかみたいなことから始まりますよね。
 移行期は非常にしんどかった部分もあるし、学生たちも何かモダンダンスじゃないものをやりたいけど、じゃあモダンダンスって何か、コンテンポラリーって何か全然分からんのですよ。学生だけじゃなくて私も何がコンテンポラリーなのか分からん。で、どうやら原型がないものらしいと(笑)。自分たちが生み出していくしかないらしいと。

古後 でも、そこにモダンダンスじゃないのもやりたいっていう気持ちはあったわけですよね。

大野 風になったり木になったり、鳥になったりするのは、何か違う気がするという。コンテンポラリーの何がコンテンポラリーかということについて、いろいろ考えましたよ。「同時代性」とか、「原型のなさ」とか、結局その「身体性」であるとか、「人そのもの」であるとか……。それと同時に、リリース・テクニック、フロアワーク、コンタクト・インプロっていうテクニックの面がぐっと入ってきますよね。今までになかった床へのアプローチ、人へのアプローチ、力をぬいて大きく動くこと……。
 コンテンポラリーの志向性とか思想性の部分と、身体性としてのテクニックとか、その辺がなんとなく揃ってきて、「あぁ、コンテンポラリーってこういうことなんかな……」って、徐々に徐々にですよね。

『応答せよ!こちら自分』
『応答せよ!こちら自分』

マキ そういうものに感応して、松山には来ないからそれじゃあ行ってやろうと、行って習ってくるということをしていたのは学生たちではなく?

大野 むしろ指導者ですよね。それか志のある3、4年生が夏休みにどこか行ったりとか。でも基本的に、学生は時間はありますけどお金がないですから、「ここにおったんじゃいかん」というので、やっぱり私たちが出かけていきました。
 この外に情報は取りに行かんといかんっていう姿勢は、牛山先生のところで学びました。私は先生のダンスカンパニーにも10年ぐらいいたんですけど、その時に先生が本当に外へ足を運んで学ぶ方だったので、先生が情報をとってきて、私たちに教えてくれました。でもやっぱ本物で見たいから、今度は自分が行ってみる。すると、出かけることがどれだけ大事かということがひしひしとわかる。
 それで何か吸収して帰ってきたら、「こんなん習ってきた」とか言ってちょっと学生と一緒にやったりとか。100吸収したつもりで、教えてあげられるのは1ぐらいですけど、教えてあげられることは少なくても、例えば私が日々から離れて、元気になって帰ってくると、それで学生らも元気になるみたいな(一同笑)。「なんか先生元気になって帰ってきたな。俺らもがんばろうかな」みたいな、なんかそれだけでも違ったりとか。

古後 風を持って帰ってくるんですね。

松山ダンスウェーブ
大野 そうこうしてると「松山ダンスウェーブ」っていうコンテンポラリーダンスの企画が始まりました。これは松山市の事業で、松山はせっかくダンスが盛んで、若い子たちもやってるんだから、それがもっと市民に広がればいいね、ということで行政がコンテンポラリーダンスを応援するというような仕組みとして立ち上げた。行政がダンスの事業にお金を出したという、非常に先駆けだった。水戸芸術館や静岡(SPAC)などをモデルにして、またちょっと違う形だけれども、コンテンポラリー・シーンを作るっていうことで。

古後 「松山ダンスウェーブ」は今も続いているんですか?

大野 最初はとにかく3年間、財団法人地域創造とかから助成金もらってやってたみたいです。いろんなワークショップを招聘したり、舞台もフランスからフランソワ・ラフィノ・カンパニーを水戸芸と一緒に招いて、松山でも作品が上演されましたが、この作品は難しすぎて(笑)、というか芸術的すぎて……、ちょっと存在が遠かった。
 それからワークショップ事業が多くなりましたね。松山市はドイツのフライブルグ市と姉妹都市なんですけれども、当時フライブルグ市立劇場でアマンダ・ミラーが芸術監督をやっていた関係で、松山にアマンダ・ミラーを招いて一緒に作品を作るというプロジェクトを、残り2年間やってましたね。アマンダを何回か招いて、オーディションを兼ねたワークショップをやってふるいにかけて残していって生まれたのがyummydance(*1)です。
 それでyummydanceたちは、ドイツにも行ってバレエ・フライブルグ・プリティ・アグリー(アマンダ・ミラーのダンスカンパニー)と一緒にやったり、プリティ・アグリーが松山に来て一緒にパフォーマンスしたり。国際親善大使みたいな(笑)部分でもあって。ここまでが、立ち上げから約3年。一応それで大きなくくりが一旦終了。
 それからはワークショップ事業と、約2ヶ月に1回の市民からの公募のパフォーマンスをやってました。ダンス・ボックスのもうちょっと市民版みたいな感じで、参加者の幅も門戸も広くておもしろかったです。で、これも一応前年度が最後ということで、松山ダンスウェーブはほぼ終了というかたちですね。
 ……というのが、観客の立場から一市民として「松山ダンスウェーブ」を見てきた私の概観です。

『応答せよ!こちら自分』
『応答せよ!こちら自分』

放し飼い計画
大野 まだ松山ダンスウェーブが立ち上がる前に、その企画者の方が「いくらでもいいアーティストを呼べるコネクションもあるけど、まだこの事業走ってないから、まだ無理。もったいない……」とか言ってるのを聞いて、「大学のダンス部で呼んだら来てくれますかね?」とか言ったら「交通費とギャラさえ出せば来るんじゃない?」って言ってくれました。実はうちの大学に「部活動の特別指導者招聘制度」という制度があって、これは、助成金の上限も日数も決まってるけれども、強化練習のための特別コーチを招くための交通費とかギャラを補助しましょうというもので、これ使ったら呼べるんちゃうん、っていうので、水戸経由でフランスの振付家エルヴェ・ロブに来てもらったりしたんですよね。
 その辺が私が招聘事業をやり始めた最初の頃で、私がどこかに行って習ってきて教えるよりも、本物引っ張ってきた方が遥かに「早い」ということに簡単に気がつきました(笑)。たった1週間でも部員の成長はすごいものがあります。カルチャーショックがもたらす「集中力」「好奇心」「吸収力」っていうのはすごいですね。それが年々積み重なっていくと、だんだん違ってくるので。
 もちろん私自身も相変わらず外へ出て行くけれども、自分が学ぶことにプラスして、いい先生と繋がることも大きな目的になってきました。その辺からちょっとスタンスが変わりましたね。だから、いい食べ物を選んできて「これ食べなさい」と言うよりは、いい牧草地だけ用意してあげて、あとはまぁ好きに育ちなさいっていう、‘放し飼い計画’と呼んでますけど(笑)。

マキ こうして松山という土地のダンス文化に恵まれた状況を聞くと、先日学生の皆さんにお話を聞いた時の印象が、そのまま蘇るんですけど、ほんとに与えられたものを素直に吸収して、それで出来てるんだなっていう感じだったんですよね。

大野 だから出来るだけいい先生を呼んであげたいなと思う。それに、もし学生が外に何か見に行きたい、外でワークショップ受けたいとか言ったら、「どうぞどうぞ、いってらっしゃい」って。別に全くリミットかけないんですよ、うちは。「情報は自分で取りなさい。どこでも行きなさい」と。だってそんなの、自分で選んだ方がいいし、行ってダメやったらダメやったでいいし。情報をふるいにかけたり、リミットかける権利は指導者にはないんですよ、実は。リミットかけられるほど私えらくないし。これも‘放し飼い計画’のひとつ。
 うちの学生はこういう大会とか来るとちゃんと「先生、先生」って言って持ち上げて、意見とか感想もちゃんと若い順に言って、最後が私だったりするんですけど、ワークショップで誰か招聘するでしょ。私も勉強したいから、時間のある限り一緒に受けるんですよ。ほんなら、私が前に行こうが後ろにいようが全然関係ないし、先生に後で教えてもらおうとも、場所を譲らなきゃとかもこれっぽっちも思ってなくて(笑)。非常にありがたいし、うれしいですけど。実は、私自身も連中の中に‘放し飼い’されてるんかもしれませんね。

*1 yummydance :松山を拠点に現在、国内外を活躍中の女性ユニット
自分の居場所をつくれ
古後 モダンダンスでもヒップホップでも、基準があるダンスでは、その基準に達している人がえらいっていうのはもう自明で、そういった中での階層化って自然に行われちゃうと思うんです。松山大にそれがないのは、うまくなるとか、かっこよくなるともちょっと別のものをめざしている?

大野 あ、ちょっと違うと思います。だから妙にうまくやろうとかかっこよくやろうとか思ってると、「アイツ勘違いしてんちゃうん」とか(一同笑)、すごい言われて。人間って本来誰でもかっこよくなりたい。それはフツウ。けど、それが強くなりすぎると「自己顕示欲」ばかりが際立ってしまう……。そういうのが「カンチガイ」な状態。舞台に立つ人は、時々この「カンチガイ」をやっちゃう。
 うちの学生は自分らが上手だとは全然思ってないんです。バレエやってた子なんていないし、大学からダンスを始める子がものすごく多い。男の子は100%そうですから。愛媛は高校もダンスが強いので、高校の時にダンスやってた女の子は多いけれども、全然初心者で始める子もものすごく多い。いわゆるダンスの既存のテクニックも、恵まれた身体も持ってないけど、自分らにしか出来んことを探せるようになってきたんがここ4,5年くらいかな。それまでは、自分とこの子たちが創った作品、「これお茶大の子が踊ったらすごいやろな」とか(一同爆笑)。「からだないよねぇ」とか(笑)、純粋に思ったこととかあるんで。今思えば、自分たちの‘身の丈’に合った表現や動きを探せてなかっただけなのよね。

『応答せよ!こちら自分』
『応答せよ!こちら自分』

アリ でも、一人一人が納得はしてる感じがするよね。自分の役割っていうか。

マキ 動き方が等身大な感じ。

アリ そうそう。一人一人の。奇形が重視されるっていうか、ちっさい子はちっさい子でいい、おっきい子はおっきい子でいいっていうのがわりとコンテンポラリーで、同じ粒を合わせてピーナッツ並べてるやろうみたいな感じじゃなくて、キャラ立ちを自分らで自覚してるっていうことじゃないかと思う。

大野 そうですね。それが出来てない時は全然ダメですね。だから、今回もコンクールの子たちに言ったのは、自分の居場所、自分の踊る場所は自分でつくれと。作品の中に必要とされるかどうかは自分が決めるのやと。あんた自身が決めるんであって、先輩が決めることじゃないっていう、それは自分がやらんとしょうがない。

古後 そういうところから、作品って、端っこからじわじわって変わってるっていうか出来てるって感じがしますよね、確かに。

大野 変わってきますしね、やっぱり。人はひとりひとり違う。コマじゃないんやから。

イマジネーションの扉
アリ 今回の『サイトトレイン』では、歌う場面でも僕は泣いてます。そんな、ダンスで泣くって松山大学ぐらいしかないんですよ。でも3年連続で僕には来るツボっていっぱいあって。今回のも、僕の中で歌は反則なんですね。「あ、来た……」っていう(笑)。

↑ 歌ってます。(『サイトトレイン』)
↑ 歌ってます。(『サイトトレイン』)

大野 あれは歌うプランではなかったんですけど、外だったか体育館で練習してた時に、周囲がうるさくて音楽が聞こえなくって、しょうがないんでリーダーの子がやけくそで歌ったんですよ。そしたら、みんな自然に歌い始めてて、けっこうそれが良かって、「これ歌うんええんちゃうん」みたいになって。でもあんまり大きな声で合唱するんじゃなく、かすれてつぶやくように……、っていうところがポイントだとは、直感でピンと来てました。

アリ そうそう、大きくないのが素晴らしい!

古後 やってみて良かったら、みんなそこでわーっと食いつくところが(笑)。多分そういったエネルギーが作品の核になるっていうか、部分になっていくんでしょうね。でも他のヒップホップとか踊ってる人たちも楽しくてやってるはずなのに、何かちょっと質が違う気がしますよね。

アリ いや、全然違う。イメージがあるかないかの問題やから、ヒップホップは明確にイメージがあってやってるから。松山はイメージのありようがないものをやってるから、すごい……。

大野 作品って、目の前で起きてる現象だけ見てもらっても「あぁ、そうですか」っていう感じじゃないですか。そこで辛い顔されても、「あぁ、辛いんやね」って思うだけやし(笑)、でもやっぱり見てる側のナマの妄想とか空想とか、イマジネーションが動いてしまうと、もうどうしようもないじゃないですか。見てる人が100人いたら100通りの人生が見てる人にもあるわけで、その人の扉がパカッて開いちゃうと、もういろんな思いが止められなくなってしまう。こうなっちゃうと、「あぁもうやめて……」みたいになって(一同笑)。作品のシーン創りって、見てる人のイマジネーションの扉を開ける仕掛けをどれだけ置けるかだと、私なんかは思ったりしますね。

古後 たかだか、大学生くらいの20歳くらいの人が作品の中にそういうものをたくさん置けるっていうのが、ほんとにすごいですよね。

大野 自分たちで分かってやってることと、なんで思いついたのか分からんっていうことの両方がありますからね。

舞台と客席との出会い
アリ 今回の『サイトトレイン』は、僕には完成度も十分に高いので、他に応募したらいいのにと思うのね。学生の枠を超えて何かっていうのは考えられないんですか?

大野 っていうか28人っていう人数で応募できるコンクールがない。

アリ その28人っていう人数があそこまでうまくまとまってるっていうのも、その構成美がピナ・バウシュとか以上やと思ったのね。あんだけの人数構成するのって大変なことだから。すごいもったいないなと。
 でもあの子らにとっては、この神戸大会が今ゴールなわけやん。で、ゴール果たせなかったみたいに思ってみんな泣いてるわけやん。他がひどいから僕はくそくらえって最初から思ってたけど、でも入賞もしないとは思いもしなかったのね。全然レベルが違うと僕は思うから。そうすると、他に見せてあげる場所が必要じゃないかって、僕ら一ファンから言ったらそうなるんですけど。

『サイトトレイン』
『サイトトレイン』

大野 そりゃあ出したいですよ。出せるチャンスがあるなら。でも現実問題としてはね……。
 あと、メンバーが大学生だから、春には4年生が卒業しちゃうっていうのも大問題。卒業しちゃうと再演不可能な、幻になっていくっていうところが……。

アリ 毎年大人数が出ていく、入って来る。新陳代謝のあるカンパニーみたいなもんじゃないですか。その新陳代謝が、強みであり弱みですよね。
 しかし今回の神戸の大会は僕も悔しかった。どこで評価されるか。ここで評価されるのは無駄じゃないんだろうかっていうことを覚えるから。

大野 神戸大会は彼らにとって青春の象徴な部分もあるんですよ。だから、神戸大会で成績を修めたいって思いは強い。
 でもやっぱり、この神戸大会という場において、今年の作品は弱かった。弱かったし届いてないし、もうちょっと個々のダンサーの存在の仕方があったと思う。しかも、仕上がりが大変遅かったので。作品を模索中な状態、それがレアな感じでいいのだけど、どう考えてもやっぱ仕上がりが遅すぎた。

マキ 一昨日はそんな中、みんな時間を割いてくれて、今思うとみんなそわそわしてたんじゃないかなぁと思って。

大野 でもすごく喜んでました。お声かけていただいて。そんなふうに全く知らないところで見てくださっていた方とこんなふうにお話できて。

アリ そんな人ってほとんどいないと思うからさ(一同笑)。僕も3年前に偶然見ただけでさ。

大野 今日も参加発表の作品って、一回生は全国初デビューだったんですけど(笑)、どこで誰がどんなふうに見てるか、これが何年後かにどんな出会いに繋がってるか分からないから、全く知らない人が見てくれる面白さ、ありがたさ、幸せっていうのを感じながら、大事に踊ってねって言ったんですけどね。
 わかんないでしょ、将来どこに繋がっていくか。3年前の『End Roll』をまさかアリさんたちがご覧になっているとは思わないし。こうやって3年経ってお話できるとは思わないし、やっぱりどこかにいろんなご縁のある方とご縁のある分だけ、きちっと舞台と客席という形で出会ってしまってるんだと思うので。

(2005年7月31日 於:神戸GUSTO HOUSE)


この11月に、松山大学ダンス部の定期公演が、松山市で行われます。私たちはもう一度出会うために行ってきます。もちろんその模様も、この場を借りてご報告するつもりです。今回2回に渡ってご紹介した松山大学ダンス部に、少しでも興味を持っていただけたら、『サイトトレイン』が幻の作品になる前にぜひ、皆さんも放し飼い計画の松山牧場を訪れて、松山大学ダンス部を応援しませんか?


松山大学ダンス部定期公演 Dance Scene 17 “STATION” 2005年11月13日(日)14日(月) 19:00開演 18:30開場
於:愛媛県県民文化会館サブホール
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