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【暑い夏12】「波の技法_clip note」

2012年07月2日

執筆・イラスト:金谷麻美

D-2 ノアム・カルメリ コンタクト・インプロヴィゼーション (基礎編)

テーマ:Riding the waves –波に乗る。
『ムーブメントの生み出すウェーブとは何だろう?カラダの内側でどういう風にしてそれを感じとるのか?世界にそれはどんな風に現れ、そしてそれを感じ取る能力をいかに発展させることができるだろうか?独り / パートナーと行う、様々なエクササイズを通じて、ウェーブを追いかけること、そしてそれを身体の内側で感じること、踊りながらいかにウェーブをキャッチし乗りこなすかを学びます。そしてそれはより自由で、より正確でより愉しいものになるのです。』(ノアム・カルメリ)基礎編では上記のテーマに基づき身体や感覚を開いていき、動きに親しみ、感じ、使うことを学びます。



prof_noamノアム・カルメリ NOAM CARMELI (イスラエル/テルアビブ)

コンタクト・インプロヴァイザー、武術家(合気道)、ボディーワーカー、そして建築家としても活動している。イスラエルの即興グループ“Oktet ” の創設メンバーで、北アイルランド“Echo Echo dancecompany” でも踊る他、ヨーロッパでの活動も精力的に行っている。現在イスラエルのCI アソシエーションの総監督、及びイスラエルコンタクト・インプロヴィゼーションフェスティバルのオーガナイザーを務める。CI、合気道、GAGA を学び続けるなか、ムーブメントの探求と融合、そしてコミュニティーの形成に積極的に臨んでいる。

 「波」ということばが気になっていたのだ。なので、ノアムのクラスのテーマ「Riding the waves -波に乗る。」を見て、一体どうゆうことなのだろうと興味を惹かれた。日程の関係で、わたしが彼のクラスを受講出来たのはたったの2日間。けれどその中で「波」について、「波に乗る」ということについて、考えてみたいと思った。感じたこと、思ったこと、クリップで挟むように書き留めてみることにする。

波に乗る為に

 ノアムのワークを受けて最初に印象的だったのは、「波に乗る」ということが、まずは自分自身がしっかりと自分の身体を支える意識を持たなければならない、という事だった。この事は私にはとても新鮮に感じられた。何故なら私は「波」ということばから、流れに寄り添うような、といえば聞こえはよいかもしれないが、どちらかといえば主体性のないイメージを無意識に持っていたからかもしれない。

 波に乗る、波乗りというものを考える時、「サーファー」を思い浮かべると分かりやすいシーンが度々あった。例えば最初、波に乗る為にはまず水の上でサーフボードに乗る必要がある。しかしこの時、下半身とその重心がしっかりしていなければ、サーフボードの上に立つことすら出来ないのだ。

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ローリング・ポイント・コンタクト

 二人組になって転がるコンタクトのワークがある。一人が床に寝そべり、その上を相手は転がりながら、皮膚と皮膚の接点を、ローリング・ポイント・コンタクトさせていく。皮膚の接点を、ボールのように見立てて転がしていくコンタクトだ。そのようなコンタクトの方法を利用しながら、人の身体を滑るように、乗り越えていく。相手に負担をかけすぎないよう、接点を少し浮かすような感覚を持つことによって、ポイントをボールにすることが出来る。寄りかかりすぎないよう、自分で自分の支える意識を持たないと相手をただ押しつぶすだけになってしまう。けれど意識しすぎると、勝手に人の上を乗り越えているだけになってしまう。バランスの問題なのだろうが、なかなか難しいのである。

2

身体の機能と流れ  

 地面に正座を少し崩したようなポーズで座り、その脚の構造と稼動域に無理のないよう、関節で円を描くように動いてみた。その時私は、「何だか人間の身体って機能的なのだな」と思った。自分の脚には、脚の関節で円を描くという機能、まるでコンパスのようなものが内蔵されているかのように感じた。関節ひとつひとつで円を描きながら出来るだけスムーズに動く。すると自分の身体というものが、とても合理的にデザインされたもののような気がしてくる。関節を出来るだけ滑らかに動かすことによって、自然と滑らかな動きが出来上がる。

 「意識することは、動きを流れに添わすことだ」というようなことを、ノアムは言っていた。そして、音楽をかける。「go through」「enjoy」ということばをノアムは繰り返す。この単語はこの後もワークの中でたびたび繰り返されたので、それはどういう意味なのか尋ねにいった。「自発的に動かすのではなく、流れを通過させ、感じ、味わうことが重要。それは身体の構造、筋肉に負荷をかけないことことでもある。」というようなことを話していた。
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コンタクトという方法

 「コンタクトは自由な横断の方法。それは他者を聴き、自分を聴くことである。」

 ビギナークラスのアフタートークでの彼の発言である。ノアムがダンスを本格的に始めたのは30代初頭であったそうだ。それまでは建築の仕事をしていたのだという。ダンスにはもともと興味があったけれど、踊りたいと思って踊れるような、周囲はそんな環境ではなかったと彼は話していた。その背景として、彼がイスラエルという国に住んでいたこと、そして徴兵されていた青年時代があることを聞く。そして30歳を迎えようとした時、彼はダンスをする為にイギリスへ向かったという。自由な横断とは、彼自身が自分の置かれた環境から、分野、そして国境すら越えて行く手段だったのではないだろうか。

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意識と波

 音楽をかけて、みんなで踊った。うねる身体、一人一人の動きが繋がって、ひとつの大きな波のように見えた。この波は一体どこからくるのだろう。それは個人が発するムーブメントからの連動だ、とは一概にくくれない気がした。流れを通過させ、感じ、味わう。自分に内在する「流れ」に個々が身を任せている。しかし、その「流れ」は個の中に存在しつつも、他者と共鳴し合っている。

 私たちは、意識的に波として存在していたのではない。無意識に波として存在し得る。波は、一定以上の圧がかかる時、分断され、割れる。その圧を意識と置き換えてもいい。例えば「流れ」に逆らい、「動かす」という意識を持つと、そこだけ少し周囲から浮いて見える。そのような時、波は割れ、崩れる。

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他者を聴く

 無意識時に認識しえる身体の機能というものも存在する。例えば、膝小僧を軽く「こんっ」と叩いてみる。すると膝は跳ねっ返るような動きをする。内在された膝の機能なのだろう、何故かは分からないのだけれど。自分の関節とは、果たしてどのように動くものなのか。意識的である時には認識出来ない、身体の内在された動きに出会う。その時わたしは「意識」としてではない「私の身体」に出会う。内在された動きを持つ、私の身体に出会う。意識から外れた身体、それは私の意識からすると他者なのかもしれない、とも思う。自分に内在される他者としての身体。そのように考えると、「他者を聴く、自分を聴く」ということも、ただただ同一に出会い続ける他者を聴くことなのかもしれないと思った。

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波に乗る意識

 

 私が波なのか、私が波と出会うのか。私自身が波であると同時に、私が波と出会う。そんな曖昧な感覚が存在する。「波に乗る」という意識。そこに自発的な意識が介在される余地が生まれる。けれどそれは、ただ流されることでも、逆らうことでもないのだろう。

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 最後に、波について 「波」ということばが気になっていたのだ。このまま流されて生きていってよいのかなぁ、と何とはなく思ってしまう常日頃だからだろうか。けれどとりわけ何かに逆らって暮らしたいわけでもないのだ、どちらかというと穏便な性格なのである。多分。けれどそもそもこの「波」って一体なんなのだろう。どこからやってくるのだろう。答えは多様であり、複雑だ、とまる投げしてしまいたい気もするが、漠然とそんなことを考える。そしてふと、わたし自身も「波」の一部を成しているのだと気がつくのである。私自身が波であり、同時に波という他者に出会い続けている。

 大海原を思い浮かべる。大海原を航海する時、私たちはただ波に身を任せるだけでは目的地に辿りつくことは出来ないだろう。波を読み、ある時は波を超えなければならない。自由な横断な方法、とノアムは言った。他者を聴き、自分を聴くこと。目的地は分からないし、そんなものはないのかもしれない。けれどノアムの「波に乗る」も、波と付き合う一つの技法なのだと思う。

(2012年4月27日、30日 参加)

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金谷麻美(かねや・まみ)

「なんか」とよく言っているそうです。「うん、なんかね〜」。「なんか」って何やねん!と自問自答しつつ、なんかの「何」について、身体を動かしたり、ことばを書いてみたりしているのかしら、と思いながら、そうでもないのかしら、と今年もレポートをかいてみました。

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