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うーちゃんとくまさんのダンス談義 2009年秋 (上念省三)

2010年02月27日

声や身体と「私」の距離


 最近、「音楽劇」ってよく聞くけど、オペラやミュージカルとはどう違うんだろう?

 うーん、難しいねぇ。クルト・ワイル+ブレヒトの『三文オペラ』も邦題ではだいたい「音楽劇」で、ミュージカルとは言われないけど、ほとんどミュージカルのように上演されてる。ミュージカルってアメリカ生れのもの、ってことかな。

 でもイギリス生れの『キャッツ』もウィーン生れの『エリザベート』もミュージカルでしょ。

 時代的な前後の問題もあるんじゃない? あんまり厳密な問題ではないような。

 じゃあなおさら、今、どうして「音楽劇」って言うのかな。

 「劇」であることを強調することもあるんじゃないかな。演劇性が高いですよ、演劇として本格的です、と。日本の「音楽劇」のルーツが『上海バンスキング』(1979、自由劇場)じゃないかという指摘があるけど、確かに演劇だよね(土井美和子「ミュージカル、音楽劇、そして…」http://www.zenkoubun.jp/print/geijyutu/art13/12_14.pdf )。

 なるほど。ミュージカルって言うと、特に古いタイプのブロードウェイ・ミュージカルは、ボーイ・ミーツ・ガールで括られるみたいなことがあるしね。ちょっと劇としては単純な、軽い感じがしてたのかな。

 まぁ、それをミュージカルの歴史は深めてきたわけで。でも、わざわざ音楽劇といわなくても、日本の演劇でいうと、唐十郎や寺山修司の舞台ではよく歌が歌われたし、最近の関西の舞台では、劇団・太陽族(以前は199Q太陽族)で歌が効果的に使われていたのが印象に残ってるね。ぼくはもちろん東京を含めた演劇を順序立てて観てるわけじゃないから、音楽劇の系譜なんかはたどれないけど、なぜだか音楽劇というものの強烈さ、劇の中の歌のすごさとか、劇の中に歌を組み込むことでカオスみたいなものを創り出しちゃうことのとんでもなさを、改めてっていうか強く感じたのは、ごく最近のことで、流山寺事務所が佐藤信の『浮世混浴鼠小僧次郎吉』(演出=天野天街、2007年2月、精華小劇場)だったんだよ。

 えーっと、なんで音楽劇のことを話題に出したかと言いますと、音楽劇と題された『トリツカレ男』(原作=いしいしんじ、脚本=倉持裕、演出=土田英生。9月22日、シアター・ドラマシティ)がなかなか面白かったからなんだけど、元「水と油」の小野寺修二の振付、藤田桃子の出演、その他鈴木美奈子、中村蓉、といったダンサーの存在感が大きいと思ったからです。これの音楽の担当は青柳拓次と原田郁子(クラムボン)。主演の坂元健児が元劇団四季でした。

 さすが小野寺さんの振付だと思ったのは、マイムというものの、何ものかを具体的に表現するような要素をすごく小さくして、雰囲気や浮遊感、スピード感を効果的に出していったから、まるで音楽のようにダンスがあったこと。

 その前の日に観た英国ロイヤルオペラハウスの『兵士の物語』(演出・振付=ウィル・タケット。大阪厚生年金会館芸術ホール)も、歌はないけど、音楽とダンスとお芝居の、音楽がすごく大きな位置を占めるドラマ。バレエ作品なんだけど、アダム・クーパーやウィエウ・ケンプらのダンサーがちゃんとセリフを喋るし、音楽舞踊劇といった感じ。両方とも生演奏だったしね。

 ミュージカルや宝塚歌劇は苦手、って言う人のほとんどは、いきなり歌いだす、踊りだすのって変、って言うじゃない。

 ある意味、すてきだけど。

 そう、きっと分かれ道。ぼくは昔『ウンタマギルー』(監督=高嶺剛、1989)っていう映画で、戸川純がいきなり歌いだしたときに、あぁ、生きていく上で、歌って必要なんだ…ってしみじみと思った。ふとした時に歌が口をついて出てくるって、よくあるじゃない。それを、ミュージカルとかだと、感情が激しくなった時に歌やダンスが出てくるっていうパターンになってたりするけど、「ふと」って、自分でも気がつかないうちに歌っちゃってるっていう、そういうのが出ると、ミュージカルでもリアリティが出てくると思った。ミュージカルにリアリティが必要かどうか、という議論はあるだろうけどね。

 関西の若い人たちも、デス電所とか彗星マジックとか、音楽をよく使ってるよね。

 劇団に専属の音楽担当がいて、劇中の音楽は全部オリジナルとか、音楽の関わり方が深くなってるし、役者の歌もうまくなってる。

 劇団コダマの『レディ? GIRL!!on air!!』(作・演出=勝山修平、8月15日、芸術創造館、大阪)なんて、音楽そのものが重要なテーマになってたから、劇に歌が出てくることが自然だったし、歌のレベルもなかなかのもので、楽しめたよね。

 劇の筋自体に音楽を絡めるかどうかは別として、音楽を使うことで、うまくすると、言葉や身体からはみ出る、まさに「肉声」の生々しさみたいなものを見せることが出来るから。歌と身体って、生々しさっていう点では、近いのかもしれない。

画像協力:こまつ座、ホリプロ
画像協力:こまつ座、ホリプロ

 こまつ座の『組曲虐殺』(作=井上ひさし、演出=栗山民也、10月28日、兵庫県立芸術文化センター)の井上芳雄なんて、これまでこの人が出さなかったような、のどが破れそうなシャウトが、ものすごい迫力だった。素のというか、裸の姿が、声から見せられたような感じ。もちろん演技だから、計算ずくなんだろうけど、計算ずくで、計算を外れた世界に踏み込んでいくようなスリルが味わえたのが、すごいなぁと思った。プロの仕事って感じ。

 小林多喜二の生涯をたどりながら、彼を弾圧する特高刑事の人間性もきっちりと描きこんでいるバランス感覚のようなものが感じられて、一方的な告発劇にならなかったのがよかったんだけど、劇全体はそういうバランスのとれた安定したものなのに、というか、そうだからこそ、壊れる寸前まで演者が突き詰めていくことを求めたんだろうし、そこまでたどり着けたんだろうね。

 この作品では、小曽根真のピアノの生演奏のほか、イデビアン・クルーの井手茂太さんが振付を担当してたけど、なるほどと思えるような不思議な動きが印象的で、完成度の高い作品の中でいい意味で効果的な破れ目になっていたよね。

 ちょっとお能の「羽衣」でシテが片手をパッと上げて、袖を頭の上にかぶせるようにする、不思議な動き、あれを思い出した。

 声って、これまたコントロールが必要なんだろうね。小劇場演劇を見てる限りは、だいたい普段会話しているような声で演技してる人が多いように思うけど、でもそれも、「日常的だよ」っていうことをつくってるのかもしれないしね。それでちょっと気づいたのが、ダンサーのお芝居を続けて観たことでね。一つはヤザキタケシさん(『出口アリ』、アトリエ劇研、9月13日、京都)、もう一つは草刈民代さん(矢代静一『宮城野』、イオン化粧品シアターBRAVA!、9月27日、大阪)。

 両方とも、そこそこ面白かったんだけど、やっぱり、演技をするに当たって、役柄に応じた自分の声をどこに定めるのかという決め込みが、実際の自分の声の揺れ幅の中で、苦心というか苦労というか戸惑いがあったように思えたね。

 ヤザキさんのほうは、時代は現代だし、方言を使ったセリフで、わりと日常的な等身大の男という設定だったけど、草刈さんは遊女・宮城野だから、時代も職業も違うわけで。

 等身大だから簡単、ってわけじゃないよ。それに、ヤザキさんは連続殺人請負人だったから、等身大ってわけじゃないし。

 そりゃそうだ。

 コンテンポラリーダンスって、普段着で踊ることが多いじゃない? バレエは、だいたいコスチュームがあるでしょ。そういうダンスのスタイルによる、身体というか踊る主体の距離の違いみたいなものがあるけど、演劇にもそういうのがあるのかな。

 『宮城野』は1960年代に発表された新劇の名作だし、『出口アリ』は新作。そういう違いがあったかもしれないけど。

写真:増森 健
写真:増森 健

 草刈さんは、わざとだろうか、ちょっと甲高いような平たいような、薄っぺらい声を出していたよね。それが前半から中盤の宮城野には合っていたかも知れないけど、男(安田顕)の本性を見抜いていることを独白する終盤には、その薄っぺらさが物足りなく思えて、この劇の深さを十分には出し切っていないようで残念だったな。

 でも、立ち姿、舞台からはける歩く姿は、本当にきれいだったよね。

 うん、それはね。娼婦という設定だから決して華やかな衣裳ではないけれど、くすんだような色の布地でも、光り輝くようだった。

 ヤザキさんは、歌ったり踊ったり、いろんな姿が見れたね。ものすごく不思議なオーバーアクションでお茶をたてたりというのが、アクセントでもあったよね。

 うん。草刈さんもなんだけど、見ていて一番戸惑いを感じたのは、この声や演技は、(このダンサーである(あった)人間の)どこらあたりから出てきているものなんだろう、ということだったんだ。

 余技かどうか、ということ?

 そうじゃなくて。さっき「肉声」という言葉が出てきたけど、最近「肉体」って言葉を、あまり使わなくなったじゃない? 演劇だから当然、役者は役を演じるわけで、お芝居の中の草刈さんは宮城野で、ヤザキさんは殺人犯なわけだよね。バレエダンサーだった草刈さんは、ダンスでもオデットだったりシンデレラだったりしたわけだから、違和感はないだろうけど、コンテンポラリーダンスで、踊っている主体は、何なんだろう? ヤザキさんが踊っていれば、そこにヤザキさん以外の人称というか人物があるわけではないように思っていたんだ。もちろん、それがイコール・ヤザキさんであるかどうかは別としてね。

宣伝美術・写真 :中野 仁人
宣伝美術・写真 :中野 仁人

 あるいは、「私」であると仮構された私。ダンサーは動いているさなかに、いつもその身体が「私」であることを感じているわけではないだろうけど、時々感じる違和感や激しい同調感、痛みや滑るような快感があった時に、自らの身体であるということ、つまりは自身ということを強く感じるんじゃないかしらん。それがどこまで深く自分自身であるかということを、いつも、踊るたびに毎回問い直し、掘り直す…踊るということはそういう作業じゃないかと思うんだ。

 いつも問い直すということは、「私」があらかじめ決定されていないことになるね。いつも白紙の状態で踊り始めるということかな。

 原理的、あるいは理想的には、そういうことじゃないかな。ダンサーにとって「私」はいつも踊る身体意識の向こう側にあるんじゃないかな。毎回「私」の身体=自身は更新されている。だから、コンテンポラリーダンスは、難解と言われるわけじゃないかな。

 観る側が、対し方がわからないということかな。

 それも大きいだろうね。モダンダンス以後(って、モダンダンスを含めるのかどうか微妙かな)のダンスにとって、ダンスする主体がどのようなものであるのか、っていうのは結構難しい大きな問題だと思うね。

 「私」が未決定だということは、どんな形にせよ作品の中で語る主体がいないか、不安定だということになるよね。演劇のほうが、そういう不安定さというのは、うまく表わせているんじゃないの? 主体の不安というのは、前にも「イマージュ」で上念さんがいくつかの演劇作品を通して考えていたよね。

 うーん、演劇はそもそも語る、物語ることが前提にあるだろうから、そのこと自体を問うということは、問題意識として取り上げやすいかもしれない。ダンスの踊る主体は何か、ということは、いつも考えることなんだけど、なかなかうまくわからないんだ。踊るうちに発見される「私」を作品の中でさらに変形させたり確認したりしながら、ということになると、一人称の存在自体がないか不安定、可変的だ、ということになるよね。

 今度はそういうことを意識しながら作品を観てみようか。



うーちゃん:演劇や宝塚歌劇が好きな、ウサギ系生命体。くまさんに付き合って、ダンスも見始めた。感性派。小柄。

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くまさん:コンテンポラリーダンスが好きなクマ系生命体。最近、古典芸能にも興味を持ち始めている。理論派。大柄。


produced by 上念省三(じょうねん・しょうぞう)

演劇、宝塚歌劇、舞踊評論。「ダンスの時間プロジェクト」代表。神戸学院大学、近畿大学非常勤講師(芸術享受論実習、舞台芸術論、等)。http://homepage3.nifty.com/kansai-dnp/




「ダンスの時間Spring 大学生版」

神戸女学院『優しさのキョリ』
神戸女学院『優しさのキョリ』

7年半、26回目を迎える「ダンスの時間」ですが、はじめて大学生だけのプログラムをご用意しました。
 学科・専攻としてダンスを学んできた人、クラブ活動として取り組んできた人、幼い頃から踊っていた人、大学ではじめてダンスに出会った人、と様々ですが、ある意味では、そのまま現在のダンスの諸相を集約していると見ることが出来るのではないでしょうか。
 卒業式を済ませた4回生が多いですが、いろいろです。卒業後、様々な形でダンスを続ける人も多いようですが、そうでない人もいるようです。
 ライフステージのある一つの節目となる公演、勢いのある舞台になると思います。
 どうぞお誘い合わせの上、多数お越しください。
◆日時 3月26日19時、27日14時・17時半
◆会場 ロクソドンタブラック
◆料金 前売・予約¥1500、当日¥2000 (2回目は、半券提示にて、当日券¥300割引)
◆出演 西岡樹里(振付。神戸女学院大学音楽学部舞踊専攻) 26日・27日夜
    天理大学創作ダンス部 27日昼・夜
    淡水(近畿大学文芸学部舞台芸術専攻、菊池航ほか) 26日・27日昼
    大阪体育大学創作ダンス部 26日・27日昼
    Akakilike(京都造形芸術大学芸術学部映像・舞台芸術学科、倉田翠・松尾恵美) 27日昼・夜
    石名智子(神戸大学発達科学部舞踊ゼミ) 26日・27日夜


「ダンスの時間Spring 2010」

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j.a.m.は、名作「SAVOY」を森井淳、高柳敬靖により再演。はじめて男性同士で上演される「SAVOY」が、どんな表情に変化するか、楽しみです。
 バリ舞踊の「根っこ」を探求し、そこから新しい表現を模索しようとしている大西さんは、自作としては初登場。
 2005年から活動を停止していたRosaさん、「5年ぶりの初舞台」という意気込みです。本番まで徐々に統合していく人格に任せている、とお便りが来ました。

◆日時 3月28日 13時半、16時半
◆場所 ロクソドンタブラック
◆出演 j.a.m.Dance Theatre、大西由希子、Rosaゆき
◆料金 前売・予約¥2500、当日¥3000(26・27日の半券をお持ちいただければ、当日券¥300割引)


※ ご予約・問合せ 06-6629-1118 ロクソドンタブラック loxo(a)thekio.co.jp ((a)を@にしてお送り下さい)
※ チケット予約販売サイト「チケ」でも取り扱っています。

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