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砂連尾理「ベルリンゆらゆら日記 最終回」

2009年12月27日

1 9月18日
作品を考える時、悩んでもその日に出来る事は限られている訳で、その中で何が出来るのかを考え、実践する事、それが重要だなと思う。振り返ってみると、何も進展していないように感じてしまう、その気持ちが空回りして、焦っている事が案外多いように思う。
【ノート】
・ アイデンティ−の揺らぎ、その揺らぎの中での関わり。
・ 後ろ向きに舞台の手前⇅奥を歩いている。そこに一人ずつ加わり、そのスピードの変化を感じさせる。
・ 歩き続けたり、名前(自分に張り付いているもの)の連呼によって普段の自分に揺らぎを起こす。

9月21日
作品を作る過程に限らず、合気道の技を掛けるとき等もよくある事だが、行く先が見えなくなるとついつい焦ってしまい、それを何とか乗り切れるような目算を立てる事で安心しようとする自分がいる。何でそんなに安心感を持ちたいのか?少なくとも必要以上に焦って、自分の首を絞めるべきではないなと思う。
【ノート】
・ 前向きでなく、後ろ向きでノーマルなスピードで歩く。
・ 全員後ろ向きで語るー誰が誰だが分からない。Ich bin〜、私は〜。記憶、歴史。
・ 全員が車椅子ー障がい者だから使用するというのでなく、歩かない為に車椅子を使用するという選択。

9月23日
間近に迫ったThikwa- Junkanプロジェクト、日本からのメンバーももう直ぐベルリンにやって来る。作品の事を考えると、何だかとても心が落ち着かず、焦ってしまうが、ここは落ち着いて、深呼吸。それにしても異国で事を立ち上げるのは日本にいるときと比べてかなりパワーがいるけど、心地よい緊張と楽しみも増すものだ。
【ノート】
・ 全員が椅子に座っている所から始める。お客に背を向け後ろ向きに歩く。歩くとはどういう事か? What is walking? How do you walk?
・ オンとオフ、その切り替えをどう見せるか?

2 9月24日
揺らぎの身体、安心していない身体、戸惑う身体、どもる身体、途方に暮れる身体、コリーナやカロルからは、そんな身体が感じられ、やはりそれが私の見たいものなのだろうなと思う。
【ノート】
・ 言葉にするとはどういう事?物事を理解するとは?言葉にする恐怖、決めつけてしまう恐怖、言い切ってしまう恐怖。
・ Timには物事をしっかり見るタスクを!

9月25日
彼等の動きを見ていると、見ている僕の今まで持っていた意識や身体がシェイクされ踊らされてしまうような感覚に襲われる。僕は自分が揺り動かされてしまうような人と一緒に作業がしたくって、そして、そうやって世界を拡げたいのだなと思う。ならば僕は彼等をどれだけ揺らして、僕が感じるのと同じように彼等の世界の拡大に力を貸せているのだろう?もし、その実現が彼等になかったならば、僕の一方的な搾取になってしまう。

9月26日
Tim&森田さん、Karol&福ちゃん、Corinna&幸ちゃんの組み合わせで決めた。
そして僕もドイツ語が出来ない言葉の障がい者として舞台に立とうと思う。

9月28日 【ノート】
・ Karol&福ちゃんー全員が椅子遊び、舞台上に散る。
・ Karolの椅子移動と、福ちゃんの車椅子移動に焦点。彼等のスピードを体感する。
・ 椅子を伴って前方及び後方への移動。椅子を置いて匍匐前進等の床ムーブメント。
・ 二人の寝ながらの足上げダンス!→再び椅子に戻り椅子ダンス。

9月29日 【ノート】
・ 森田さん&Tim&アンドレアスー言葉と身体はどうしたら乖離するのか?言葉と身体の不安定さ。日本語、ドイツ語の言葉の交換。

3 9月30日
コリーナのような、囚われを持たない身体に憧れを持ってしまう。でも、僕は彼女のようにはなれない。でも今は、取りあえず彼女に近づき、こちらの意図がよく理解出来ない彼女に必死で対話を試みようとする、そんなのっぴきならないような状態に身を置く事でしか先に進めない気がする。
【ノート】
・Corinna&幸ちゃんー見つめ合い、肌をふれあい、そして、ただただお互いの名前を呼び合う事から始め、そしてそこから生まれてくる事を待つ。

10月2日
障害の有無、差異を超え、他者と関わるとはどういう事なのか?昨日迄の自分に固執せず、常に自分の価値観を揺るがし続けながら、目の前の相手とどう関わる事が出来るのか?
【ノート】
僕らが関与せず、それぞれのペアを稽古場に残して対話してもらう。通訳を介さずに彼等自身がどんな対話を試みるか?

10月3日
やばいやばいと思っても今日が本番。出来合いのものを見せるのではなく、皆との間で何をしたいのか、そして何を言いたいのか。その事を考え続けるのが今回のテーマであり、本番までの残り数時間が、その問いへの(今日の段階での)答えを出す踏んばり時だと思う。

4 10月4日
本番から1日経った。何とかなったし、評判も上々だった。それにしても最後の最後まで色々な所が決まらなかったし、前日から比べたら大分変更したけど、本番はみんな落ち着いていたし、楽しんでやっていたなと思う。そもそも舞台の場に於いて自分の思い通り進行しようなんて、観客に対し傲慢で、おこがましい考えだなと、最近つくづく思う。また、障がいを持つ彼等とパフォーマンスを行う時、こちらの意図を押し付けても、それはこっちの勝手な都合なだけで、そんな事を彼等はやってくれないし、やれない。そんな時、舞台に於ける演出って一体何なのかと考えさせられる。舞台はある意味、虚構なのだから、当然ある演出(場所の設定や時間の進行)は必要なのだけれど、彼等と一緒にやっていると、演出に少しでも作為、或はこちら側のエゴが見透かされると、そんなのには乗ってやらないよと言われているような気になる。彼等の身体からは必然ばっかり出てくるのだから、僕は余計な事をせず、それが出てくるのをじっと待つだけで十分な訳で、ただそれは障がい者との作業に関わらず、演出・振付の態度って本来そういうものなんじゃないかなと思ったりする。


〈あとがき〉
今回4回にわたりdance+上でアップされた“ゆらゆら日記”は私が文化庁の在研でベルリンに滞在していた時につけていた日記から一部抜粋したものです。この日記は書いていた当初は私的なもので、人に読んで頂く事を前提に書いていたものでは全くありませんでした。その姿勢は基本的には最後まで変わらず、私自身は自分の為にその日記を書き続けましたし、この場に関してはその整理、振り返る時間にしていたように思います。
その事が読んで下さった方々に対し、どれだけ責任を果たせていたのかは分かりませんが、何かしらの気づきになっていたとしたら幸いです。
最後に、この場にお誘い頂き、書く機会を与えて下さったdance+には感謝を述べたいと思います。ありがとう。


砂連尾理(じゃれお・おさむ)

大学入学と同時にダンスを始める。’91年より寺田みさことダンスユニットを結成。又、近年はソロ活動を展開し、舞台作品だけでなく障がいを持つ人やホームレス、子どもとのワークショップも手がけ、ダンスと社会の関わり、その可能性を模索している。’02年7月「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2002」にて、「次代を担う振付家賞」「オーディエンス賞」W受賞。平成16年度京都市芸術文化特別奨励者。2008年秋より一年間、文化庁・新進芸術家海外留学制度の研修員としてベルリンに滞在。
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