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【暑い夏09】Hot Summer in Kyoto 2009で見つけたつながり

2009年07月26日

C-3(クリエイション) リサ・ネルソン
“Touch, Contact, Bones” Steve Paxton + Lisa Nelson Dance Project 主催:DANCE DOCUMENTS JAPAN COMMITTEE「 チューニング・スコア」 ─ 作舞、コミュニケーション、イメージ感覚についての実験室。 イマジネーションの身体的な基盤に焦点をあて、自身の空間や時間、アクションや欲求に気づき、自然発生的に生じるコンポジションと出会うクラス。ダンスを見る時、人はそこに何を見るのか、その根本に迫ります。(内容の都合により、申込は通しのみとなりました)



prof_lisaリサ・ネルソン (USA アメリカ合衆国)
スティーヴ・パクストン、ダニエル・レプコフらをはじめとするコンタクト・インプロヴィゼーションのパイオニアのひとり。振付家、即興舞踊家、ヴィデオ作家でもあり、’70年代初期から、上演における感覚の役割や動きの観察を探求し続ける。ヴィデオとダンスの活動を通して、自然発生的な作舞/上演法である“Tuning Scores”を展開し、Image Labパフォーマンス・アンサンブルでの活動を行う。’87年にニューヨークのベッシー賞、 ’02年にアルパート芸術賞を受賞。エマニュエル・ユインをはじめヨーロッパの多くの作家に影響を与えている。30年間に渡り、ダンスと即興に関する国際的な定期刊行物Contact Quarterlyの共同編集者として活動、C.I.の発展に大きな貢献をしている。


ここ数年「暑い夏」は私の中で、いろんな講師や参加者との出会いを通してリフレッシュする貴重な機会となっているけれど、今年はそれらをつなげることが楽しみに加わった。この楽しみに気づかせてくれたのが、C-3の講師、リサ・ネルソンだ。彼女のクラスで目にしたことはまた、もうちょっとマシにダンスとつながれないもんか〜と、どんよりしていた記録者+万年ビギナーにとっても突破口ともなった。だから2009年の暑い夏は、彼女のことを中心にお伝えしたいと思います。



リサ・ネルソンなる人物は?

リサ・ネルソンは、アメリカのポストモダンダンスと歩みをともにしてきたアーティストで、振付、即興舞踊、映像で創作活動を行い、『CONTACT QUARTERLY』の共同編集者やビデオ制作会社(?)videodaの主宰でもある。今回は、コンタクト・インプロヴィゼーションの創始者、スティーヴ・パクストンとの共同プロジェクト「Touch, Contact, Bones」のために来日し、「京都の暑い夏2009」では7日間のクリエイションクラス(以下C-3)を開講した。舞踊史における重要な潮流を知る人物とあって楽しみにしてはいたが、初日の見学で虜になり、足繁く通いつめることに。というのもC-3は、体を動かすというよりは知覚を吟味すること、しかも「見る」ことが入り口となっていたからだ。

入り口は「見る」ことから

クラスの開始にあたって、リサはまず車座になり、私たちの視覚の働きと関係する諸々について語りだした。例えば生まれつき備えている能力や傾向。文化に規定されている一方で、環境に応じて学習し変わってゆくといった側面。そうして座ったままちょっと目を休めるワークを紹介してから、空間を歩くのと次のようなナビゲーションが組み合わせられていった。何に焦点をあてているか。周辺視野に映っているのは何か。「見るsee」と「眺める(見える)look」の違いは? 空間の中に何か構造が見つけられる? イメージから考えることへとシフトしていく時がありますねetc……。こんな風に視線の先と奥を行き来する問いかけを、リサはゆったりした声で繰り出してゆく。

見学しながら“参加”してみた

これはやってみなければほとんど意味がなさそうだ。そう思いながらも見学を続けたのは、眼の前の光景に魅入ってしまったからだ。そもそもダンスが生まれる瑞々しい瞬間に立ち会えるのが、ワークショップ見学の醍醐味だと思うのだけど、そこでは他のクラスの講師陣をはじめとする蒼々たる顔ぶれの参加者たちが、始まりもなく終りもなく、まるで遊んでいるかのようにタスクを即興で連ねてゆく。そうこうするうちに、「あなたたち(見学者のこと)もそこでできるわよ」とリサに促されて、どれどれ、と彼女の声に耳を傾けてみることに。すると、普段と違った見え方になるのかなくらいに思ってはいたけれど、それもさることながら、見ることに興じる自分もいつになくすっきり把握される。まるで視線に綱をつけて散歩させ、その動きを観察しているようだ。ほどなくして、自分の目がよく辿る道筋や立ち寄る場所に気づいたりもするのだが、その傾向もさっきまでとはうって変わって、その場で生まれては消えゆく感興を貪り食ってゆく。何より、普段ちょっと脇にどけときましょうと思っても、すぐに頭をもたげる「何を?」や「どこへ?」はどこへ行った!?

photo: I.Takeda
photo: I.Takeda

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身体を循環する「見る」と「踊る」

こうしてちょっと舞い上がった後、落ちついて観察してみれば、全身で空間を散策している参加者たちが静かに盛り上がっているのも無理なく思えてくる。彼らは先のやり方で変化する世界の相貌と即興を連動させているからだ。タスクを遂行するうちに目にするもの触れるものが次々と「食欲」(これはリサがよく使った言葉)をかきたてるご馳走と化せば、それは自ずと次の動きを生み、動いた先にまた次のご馳走が待っているだろう。こう思い至ると、普段どおりの講堂を喜々として探索する参加者らの姿に、「見る」と「動く」が二つ巴をなして戯れているイメージが重なってくる。別の日にリサは、パクストンのパフォーマンスを見た時の感想を、「ドラマ化されたのとは違う意味でドラマチック」と表していたけど、ちょうどここで起こっていることも、人間の内外を行き来する力が相関して流動し続けるってところではそんな風に捉えられるのでは? そして、「均衡—葛藤—調停」というフォーマットに切り取られないところが肝心らしい。

人々の間で循環する運動イメージ

その後クラスはペアを経てグループへと展開し、視覚以外の要素も取り入れられていったので、“見学しながら参加”はこれだけ。けれども初日にフィジカルな運動に重なって見えたイメージの循環は、人々の間でキャッチボールされながら、ますます興味深い眺めを展開していった。そこでお互いの食欲を刺激し合う知覚と動作は、模倣でもなく、また解釈でもないやり方で循環を生み出してゆくのだが、それが人々の間で交換されると、思わぬ転調を引き起こしながら連鎖してゆく。そしてその途上で、タスクを遂行しているだけの身体にはっとするような「未知の相」が現れたりもする。最終日の公開ワークショップでは、1分間の即興ソロを見ていた(あるいは目をつぶって何かを感じ取っていた)任意の6人が、その動きを「リプレイ」するということが交替で繰り返されたが、そこで目にされたのは、ポーズ、ムーヴメント、身振り、関係、ダイナミクス、あるいはそういったダンスを扱う既存の視点では捉えることのできない、多様なイメージの響宴だ。それはまるで、一般に踊る人の数あると言われるダンスが、見る人の数ありもするという事実が可視化されたかのようでもあった。

photo: I.Takeda
photo: I.Takeda

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「見る」と「踊る」が関係を結ぶ場

こんな風にしてC-3は、鑑賞体験としてもかなり面白かったのだけれど、そこが、体を動かすことを棚上げした者をも場の一部であったという気にさせる、相互の関係の場であったことも言い添えておきたい。それは単に、言葉のナビゲーションによって、その場にいる人たちとタスクを共有したような気分になれたからかも知れないし、見学者に声をかけるリサの振舞も、「踊る人」と「見る人」の温度差のゆるい、クラス独特の雰囲気に作用していたのかも知れない。だが何よりも、そこでは居合わせる者は誰もが見るという行為と、見られる可能性をともにしている。見学者は動いて空間を変える力を持ってはいないが、自分が空間を探索する彼らの目にいつ映りこむやも知れず、それが即興のご馳走になるかも知れないのなら、劇場の客席にいるのとはやはり違う居ずまいになる。

「いまここ」にとどまらない循環

さて、こうして振返って来るとC-3は、多くの振付家やダンサーがめざす「未知のイメージ感覚」と「生動の循環」を絶妙に絡ませて、居合わせる人々と“共有”することを難なく達成したように見える。実際その手法は、鍛錬とか特殊な技術によるのではないのでまさに易しいし、即興という設定の困難である「〜に囚われない」からもフリーで軽やかだ。リサ本人曰く、「お金がかからない(笑)」安い方法でもある。けれども、というかだからこそ、個々の身体に即して実践できる具体性とシンプルさを備えたこの手法は、ワークショップという枠組みを超えて、ダンスとライフに関心を持ついろんな人と響き合って転がってゆきそうだと思わせる。C-3がオープンエンドな実験の場であったことを受けとめて、上に見た成果が終点とならないように、方法についての手がかりを残しておきたい。

「知覚の調律」という方法

リサが用いた「チューニング・スコア[*冒頭のクラス紹介文参照]」は、知覚のチューニング(調律)によって即興でダンスを生成する手法ととりあえずは言えるが、通常のダンスの創作手法とはかけ離れた特徴を備えている。

photo: I.Takeda
photo: I.Takeda

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関係の束としての有機体・身体の知恵

まずこのクラスでは、即興を生みだすしくみは、すべてお互いに作用を及ぼし合う関係項から成り立っている。その要となっているのが、有機体としての身体だ。いくつもの関係項の相互更新の中で全体の生を維持する身体においては、ダンスを成立させる基本要素「踊る」と「見る」も、一つが変われば他も変わるといった関係にあり、切り離して扱うことはできない。知覚のチューニングによるダンスの創造は、この生まれつき身体に備わる力を頼みとしたものだが、同じような相関関係はペアやグループでのワークにも設定される。例えば個々のタスクには、「教える人」と「学ぶ人」、「案内する人」と「ついてゆく人」、「目の見えない人」と「見えている人」といった互いに必要とし合う関係が重ねられ、イメージも動きもそれらを遂行する人々の間で自ずと、つまり誰か1人の作為に拠ることなく生み出される。言わずもがなながら、それは自立したダンスをつくりましょう、そのために身体能力や表現力を磨きましょう、そのためにジャンプ力や柔軟性を……といった、狙い定めて身体を鍛錬してゆくアプローチとは対極にある。このようにリサは、創作という通常は一個の主体に帰せられ、同時に能動と受動といった役割分担や主従関係を連鎖的に生み出す行為を、有機的なつながりの中に置き戻す。

オルタナティブに作用する関係づけとオープンエンド

その際の関係項の設定が、また独特だ。一番びっくりしたのは、パートナーがつくった動きを学ぶという、いわゆる振り移しにあたるタスクが、「学ぶ人」が「主導権を握る人」であり、しかも「目の見えない人」(!)という設定で行われた時だ。これを見ると、相関項の一つ一つは、ダンスの上演や教授の場でよく見られる役割分担のようだが、リサはそれらを複数で、一つの主従関係が他により相対化されるように組み合わせて用いる。慣習的な力関係を攪乱するような設定は身体の相関項においても同じで、出発点とされたのは「踊る」ことに対して受動的な位置づけにある「見る」ことだった。そうかと思えば、クラスが進むにつれて目を閉じるという設定も用いられるようになり、するとあらゆる活動において支配的ともいえる視覚以外の感覚、特に触覚がアクティブに働きだす。このように、すでにある力関係を転倒させるにとどまらず、それによって新たに生じた均衡さえも流動化するように、関係項は常に組み替えられてゆく。ダンスという目で見れば一見、単なるオルタナティブ志向と捉えられそうだが、それはタスク設定の手がかりにすぎず目的ではない。先にも触れたが、そもそもショーイングではなく普段どおりのワークショップを公開して終了したこのクラスには、終点というものがない。

日常生活とスペクタクルに関するクリティーク

このように見てくると、奇異にも思えた手法の影響しうる範囲は、ダンスを超えて日常生活へと伸びてゆくように思われる。というのもそこで行われたタスクの数々は、あらかじめ備わった体の秩序、つまり日々の反復経験によってかたちづくられている身体の秩序を、知覚の側から流動化するものともなるからだ。ダンスを学ぶこと一般が、日常では行わない動きを通して動作を司るパターンそのものを変えてゆくのと同じで、知覚の調律は、目や耳や皮膚が受けとめた感覚を脳内で再構成するパターンに働きかける。身体地図や知覚の図式と呼ばれるそれら秩序が、ものの見え方や感じ方考え方、動きや行動を方向づけていることを考えるなら、そこにオルタナティブに働きかけることは、「魅せる」「表現する」ための技術の獲得にいそしむダンスだけでなく、「ためになる」にカスタマイズされた日常生活にとっても批判的な意味あいを帯びてくる。う〜ん、打ち上げでリサが口にした言葉、「身体はポリティカルなもの」とはよく言ったものだ。

時代と地域を越えるリンク

リサ・ネルソンがポストモダンダンスと関わりのある人物だということを思い出してみれば、それも故ないことではない。時代の思潮と結びついた一種の社会的ムーヴメントでもあるポストモダンダンスの活動家たちは、舞台という制度空間の中で歴史的につくられてきた視線と身体の関係を批判的に捉え、そこで自動的に反復される価値観から身体と視線の双方を解放しようとしたからだ。そしてかのムーヴメントは、1990年代後半からヨーロッパのコンテンポラリーダンスにも面白いかたちで飛び火しているのだけれど、リサもどうやらそのフィクサーの1人らしい。フェスの主宰者・坂本公成さんによると、2年前にvideo salonでレポートした「暑い夏」常連講師のエマニュエル・ユインと、今年も講師を努めたヌノ・ヴィザロから、彼女のことはよく耳にしていたという。この3人のつながりに触れるのは、“ノンダンス”とカテゴライズされている作家たちの取り組みに対する見方が、リサの手法を通過すると変わってくるからだ。一般に彼らのダンスが「踊らない」「ダンスじゃない」と言われるのは、たぶん、リサのように視覚に対する批判的な取り組みを「入り口」としているからにすぎない。目的化してしまっているものも少なくないような気がするけれど……。そして、リサ自身がこのような手法をどうして編み出したのか聞いてみたところ、映像やビデオなんかのメディアの実践と関係していると教えてくれた。折しも「暑い夏09」のプログラムには、映像や照明システムを用いた新しい柱が加わったところ。なんだか、リサを中心にすべてがつながるようでくらくらしてくるけれど、実際、Eクラスで行われたことは、知覚のシステムに関する基本的な考え方ではリサと共通しているように思われる。



以上が、リサが2009年の「暑い夏」に残してくれたリンクの手がかりだ。これを辿ってゆくのは今後の課題。私にとってはさしあたり、踊ることと見ることが1人の身体においてしっかり結びついていて、双方の関係を「見る」ことを入り口に流動化してゆけるということ、さらに様々なダンスへのアプローチが存在し、それがダンスを人間活動の有機的な複合体にしているといった実感が次へのステップとなる気がしている。もちろんそれは、動かないことのエクスキューズにはならない。その後ビギナークラスに参加し、アフタートークや打ち上げで人々と話をしたことなどを糧に、この実感は、それまで私の中でうまく関連づけられてなかった動くことと見ること生きることもろもろを、ドミノ倒しのようにつなげていった。

そしてやっぱり最後には、リサと、彼女を呼んでくれた「暑い夏」事務局スタッフに、そして期間中にきゃーきゃー言って新発見を交換し合った仲間たちへの、感謝で終わりたい。ありがとうございました!

photo: I.Takeda
photo: I.Takeda

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古後奈緒子(こご・なおこ)
dance+メンバー。元窓口。舞踊史研究・批評。稼業は語学にまつわるなんでもかんでも。

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