2009年06月28日

F(ビギナークラス) チョン・ヨンドゥ コンテンポラリー・ダンスって何?どんなことするの?そんな疑問に応える、毎年大好評の通称「サラダ・ボール・プログラム」。ダンスに興味ある方へのイントロダクション・レッスンです。世界で活躍する「暑い夏」人気講師による様々なスタイル、考え方のダンスに触れることができるプログラム。ワークショップ終了後には講師との交流の場「アフタートーク」。そして、講師とスタッフ&有志による「懇親会」へと流れ込みます。身体的にも知的にも刺激的な〈場〉です。



prof_jungチョン・ヨンドゥ (Korea/Seoul 韓国/ソウル)
西洋的で高度なダンスメソッドと明確なコンセプトを併せ持つと同時に、東洋的に抑制された繊細な動きが彼の才能を裏付けている。Doo Dance Theater主宰。韓国新進気鋭の振付家である。韓国を拠点に世界各地で活躍する。’04年にはリトル・アジア・ネットワークでアジア各地を巡回。韓国でも多くの賞に輝く他、「横浜ダンスコレクション・ソロ&デュオコンペティション」にて、「横浜文化財団大賞」ならびに「駐日フランス大使館特別賞」を受賞、フランス国立トゥルーズ振付センターにて研修する。’08年「踊りにいくぜ!」(栗東、東京、広島)など来日多数。
わたしはコンテンポラリーダンスが大好きだから、その存在は勿論のこと知っているし、何度か作品も見たことがあって、「何それー?」という友達にある程度説明できる(と思っていた)ほど、自分の中では明確な定義をもってそれはあって、近しいものだった。でも、チョン・ヨンドゥさんのワークショップを通じ、実際は全然そうじゃないことが分かり、断片のみが手元に残った。「わたしにとってのコンテンポラリーダンス」とは何か。そのヒントを掴むまでを、ワークショップの内容に沿って書いていきたいと思う。

ワークショップはまず、筋肉と骨の説明から始まった。筋肉は骨にくっついているので、ストレッチは筋肉が痛みを感じるほどに伸ばすことはせず、「骨を伸ばす」らしい。痛みを感じると、そこはその筋肉の限界だから、無理はするなと言われる。不思議な感じだが、妙に納得する。今まで参加してきた幾つかのワークショップでは、自由にならない踊れない体を最大限自由にさせようと、後日の筋肉痛を含めて痛みに耐えてきたはずなのに。「今ない(踊れる)自由」に意識を向けるのではなく、「今ある(踊れない中での踊る)自由」に気づき、大切にしたくなる。ほんとうに、ふしぎなかんじ。

次にペアになり、口や鼻からだけでなく、相手の身体の部分を触って“そこ”からも呼吸をしてもらう。“そこ”は複数である。わたしは肩やふくらはぎ、腰を指示される。始めから3点に、通常では求められない意識を向けることはできないので、ひとつずつ足してもらうことにし、深く集中する。自覚はなかったが、わたしの“そこ”は、ぴくぴくと呼吸できていたようだ。相手の人の身体を触ると、確かに徐々に“そこ”が深く動くようになってくるのに気づく。身体に対する純粋な感動を見つける。「踊れる/踊れない」以前に、わたしとペアの方の身体は、わたしとペアの方それぞれのもので、ちゃんと働く。それで充分に足りている。

F_Jung_kunito_1 F_Jung_kunito_2
photo by K. Hanako

そして、呼吸で振付をする。ペアの片方が「吸う」「吐く」の息を自在に操る。もう一方は、その息に合わせて自由に動く。他者の呼吸を意識しながら動くのは、かなり大変だ。でも、すごく面白い。日常にあるもので、こんなに遊べるなんて。日常にある「踊り/ダンスの種」に興味が湧いてくる。ダンスって、踊るって、こんなに身近なものだったのか。きっとそうだったのだとも思う、単にわたしが忘れていただけで。

そうしているうちに、“残るのは誰だ?!ゲーム”に勝ち残り、わたしは他の参加者がつくる円の中心で動くことになった。わたしの動きに合わせ、周りが呼吸をしてくれるらしい。わたしはまず、踊ってみようと考えた、踊れないのに。まあ、要するに変な動きを試みた。動きひとつひとつに対し、吸ったり吐いたりが大きく聴こえる。自分以上に、自分の動きに集中されることは始めてなんじゃないかと変な気分になる。だんだん、呼吸に自分が操られているみたいになってきて、呼吸を裏切りたくなる。このままでは、全然おもしろくない、簡単に呼吸させたくない、とわたしが選んだのは、日常の動作だった。歩く。止まる。座る。立つ。覚えているのは以上だが、普通の動きを始めた途端に自由になった気がした。周囲の呼吸は相変わらず続き、大袈裟な音を立ててはいるが、わたしにはほとんど聞こえなくなった。上機嫌な自分が分かる。わたしにとって踊るとかダンスは、普通で身近なはずだったけれど、やっぱり変だと思っていたことに気づく。踊りやダンスは、ほんとうは日常や普通と対等で地続きなんじゃないのか……、じゃあ、わたしは、もうダンスなんて見なくても、日常で見つけられる目を養えば充分なのではないか。

F_Jung_kunito_3

この考えはわたしにとって、結構ショックなもので、落ち込んでしまった。今までこんなに好きだったのは何なんだ、とか、どないするねんお前、とか、自分自身に文句をたれ、更に落ち込んだ。それで、日常を眺めてみた。ワークショップ会場のある四条烏丸に向かう電車で、大学で、道で。でも、やっぱりダンスが日常そのものではないことに気づいた。日常は「踊り/ダンスの種」を豊富に含むが、その芽たりえない。日常とダンスはパラレルで、らせん状で、近いんだけど微妙にちがう。日常という線から、少し(目にみえるかどうかの微細な距離で)浮いているのが、ダンスなのではないか? わたしは、このワークショップを通じ、こんなほんの少しのヒントを手に入れた。これから、どんなヒントに出会えるかと思うと、楽しみである。

国頭郁美(くにとう・いくみ)
自分の言葉で大好きなダンスについて語れるようになりたいと思い、暑い夏終了後ドキュメント班に参加志望しました。思いを余すことなく伝えられる、自分の文体を探しています。物忘れが激しいのを治したいです。よろしくお願いいたします。
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