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【暑い夏18】ダンスを見る目に見えないダンス

2018年06月28日

〈B-2:長内裕美〉ワークショップレポート

 

● 導入のインパクト


 「はい。一分間笑います。」カモシカのようにすらりとしてバネの強そうなダンサーは、そう言うなり全身で弾むように笑いだしました。「笑ってください」でも「笑いましょう」でもないのに、瞬く間に参加者の間に広がるハ行。しばらくすると「今度は一分間、泣きます。」またもや皆がダンサーに続きます。ダンスのウォーミングアップにしては珍しいインストラクションに意表をつかれつつ、自分の傾向、クラスのテーマについての伏線の詰まった二分間でした。

 講師の長内裕美さんは、H.ART カオス、プロジェクト大山といった、日本のコンテンポラリー・ダンスの画期的カンパニーを経てソロ活動を始めたアーティストです。2009年に横浜ダンスコレクションで受賞された後、本フェスティバルの2010年度アンジェ奨学生を経て多数のグラントやレジデント機会を獲得し、数年来ベルギーに拠点を置かれています。(ホームページhttps://www.yumiosanai.com/bio参照。)プロフィールで共有されている問い「何が私の、他者の感覚を変えることができるのか」には、見せることの先まで考えた活動姿勢が伺えます。

 報告するのは、ダンスは見る派の万年ビギナー。今年は通し受講を決め、十年近く憧れていたアビゲイル・イェーガーの朝クラスと、「観察」が鍵となるらしいB2クラスを選びました。以下のレポートでは、踊る人と見る人の間で「受け渡されているもの」に焦点が当てられたクラスで、動いたり見られたり、見ながら動いたりする中で見えてきた眺めを、思い出しておきたいと思います。

 

● 見ることと動くことのあいだ

 このクラスでは与えられたタスクに即して各々で動いてゆくのですが、ほとんどの場合ペアかグループの間で「動く人」と「見る人」の役割を交代しながら課題に取り組むのが特徴です。似たようなワークは何度か経験してきましたが、その多くはダンスをシンプルな基本要素に分解し、各々が当事者としてそのしくみを研究することに焦点があったように思います。今回それより少し複雑に感じたのは、動く人がその前に観察した相手の表現を取り入れ、さらに途中からは見る人も観察しながら動き続ける(!)という風に、双方のダンスが循環、あるいは干渉しあうようにタスクが組まれていたところです。つまり、踊る人と見る人の間に、フィードバック・ループが生みだされる。

 この他者の踊りを見ることが自分の踊りにつながる設定は、実際やっているととても楽しく、自ずと流れに乗るような充実したひと時がたくさんありました。特に「見ている人もアクティブで」(つまり観察しながら自分も動く!)という指示が加わってからは、時間差で影響し合うところに同時で反響し合うドライブ感が加わり、クラスの雰囲気が一変したように感じます。初日の感想にあったように、この体験を、踊る人と見る人の領域を分けてきた劇場の体験と対比させて、肯定的に受けとめた参加者は少なくありませんでした。たしかに、にわかに活発になった両者の間の交通には、目を見張るものがありました。ドキュメント観点をここで挟むと、映像記録があれば、こうした何か興味深いことが起こってるように思われる瞬間を、後から参加者がふり返って対話を深める材料にもなるなと思います。さておき、ではこのとき行き交っていたものは何なのか。

(撮影:下野優希)

 

● もらっていたのは動きだけなのか


 最初にパートナーの動きの中に自分の動きが返される楽しみにも触れておきます。ペアかグループとの同時反響する取り組みの中で、自分が見て選んだ結果のなにがしかが、他の人の即興の中に映し出されるのは、とても面白いものでした。ただこのときのことを思い出そうとしてもはしゃいだ感覚ばかりで、それって感受性の高いダンサーが私を絶妙に承認し続けてくれてただけじゃないか、と思わなくもない。相互に影響しあう中で好感触が膨らんでいくのは、ダンスの幸いな側面ではありますが、ワークの順を追うなら、長内さんが冒頭から通らせようとしていたのは、別の側面のようにも思われます。というのも笑う泣くに続く課題は、私がそれまでダンスと考えてきたものにどうつながるのか、頭をひねらせるものだったからです。

 例えばウォーミングアップに次いで長内さんが示して見せたのは、顔を大袈裟に動かしていろんな表情をつくってから、ふいっと息を吐いてパートナーに渡すという不思議な課題でした。ともかくやってはみましたが、ふだんやらない動きに対する違和感が、他の身体部位より大きく感じられます。それは脳に近いとか神経が集っているといった顔の特性によるのかも知れないし、順番からして怒り系に見えた表情への抵抗感かもしれない。顔というものがふだん情動や、食事や発話の用と強く結びついて動くものであることを考えると、自立して動かすということにすっと入れなかったのも無理はありません。

 こうした困難は、他の人が踊るのを見ること、すなわち自分の外側に意識を転じることで、少しく解消はされます。最初に組んだなつみさんは、西洋の宗教画を思い出させる彫りの深い顔をぐにゃりと歪めると、まるで聖人の皮を食い破って悪魔が出てきたように、顔の中央から四肢の隅々へ淀みなく動きを展開してゆきました。その後ペアになったたまみさんも、ぎくしゃくしがちな私の身振りをリズムに満ちたご自身のスタイルに統合し、音楽に合わせてエネルギッシュに展開されます。いずれも思わずそっくりいただきたくなる素敵な振付で、私の動きに動機とエネルギーを備給する魅力を十分備えています。ところがここから自分が動く番になりいざその振付をいただこうとすると、自分では受けとめきれないもの、外形的になぞる動き以上のものをもらっているのに気づきます。

 

● 動きを内側から満たし支えるもの

 いわゆる上級者と初心者の能力の違いという現実はあるものの、ここでのギャップをそう片付けては、せっかくの体験を「できるできない」に回収してしまいます。そうではなく見る人踊る人相互の他者性と捉えれば、それはフィードバック回路を閉じたものにせず、新たな展開を導く契機となる。実際、筆者の知覚世界をがらりと変えたのは、踊り手の内側の感覚に方向づけられたこのダンスに対する他者性でした。ここで情動系の導入と絡めて思い出されるのが、次のペアワークに進む前に挟まれた奇天烈なソロ課題のことです。それは食物が口から入って体内を通過してゆく道のりを、想像しながら動くといったものでした。ふだん意識しない身体の内側を想像するため、通過する諸器官の接触面の感覚や、消化され変化してゆく状態を仮想中継するような録音音声に、参加者の動きに対するフィードバックを含むリアルタイムの実況中継が重なってゆきます。

 以上のように、顔に始まり、その独自の論理を身体に移し替える中で掘り下げられたのは、動く人が内側から感じる運動――情動や内臓感覚と呼ばれる–だと考えられます。身体運動と連携する主要概念の変化をたどり、ダンスおよび踊る身体がいかなるモデルで捉えられてきたかを論じた『共感を振り付ける』(Foster, Susan L..Choreographying Empathy, 2016.)によると、情動や内臓感覚は、踊り手の仕事を確固と支えているにもかかわらず、見せるダンスの展開過程でいかに度外視されてきたかがわかります。そうしたダンス観における偏りはそのまま、モダニズムの延長に拓けたコンテンポラリー・ダンスというフィールドでダンスに親しんできた私のものでした。

 乱暴な言い方をすれば、見るに偏った派の意識の領野には、内側から感受されたダンスの姿ははほとんど顕れてきません。もちろん、踊り手にとってそういう感覚がありありと現実を構成しているであろうこと、また現象としてダンサーと観客の間を媒介し得ることも知ってはいても、それは自分の関知し(得)ない領域の事柄として、壁のあちら側に置いている。ここで比喩を借りるなら、より生き生きとした世界の存在を感知はしていても、その世界とこちらを遮断するスクリーンに投影されたダンスの幻影に目を奪われている、といった具合です。問題はたぶん、あちら側の世界が十全に開示され得ないことではなく、そうした世界を開示する鍵がこちら側の自分の身体をありありと感受することにあると気づいていないことにあると思われます。

 対してクラスでは、私には見えない感覚の領域に深く根ざして動いている他者と密に対話を交わすことで、人は自分の関知しうる世界の限界および外部の存在をよりリアルに受けとめることができます。その存在を知覚できなくともあると察知したときに、いかになかったことにせず、自分の側で張ったスクリーンを破って、いかに他者と出会ってゆけるのか。二日目の後半にはそうした構図を反転する契機も用意されていました。目や耳を閉じたり開いたりしながら、というタスクが加わったのです。大きな流れとしては、顔の動き方を全身へ移してゆき、ワークごとに即興テーマが自由になり、意識がテンポや音楽性に向けられ、ワークはグループに展開してゆく。その中で、次第にダンスっぽい課題になってゆきながら、相変わらず他者の振付をもらって返すということを繰り返している。その中で、この内と外の境界にある意識のスイッチを切り替えながら、動きがどう変わるか観察してゆくのです。外から入ってくる情報を止め、内側の感覚に目を向ける。そして踊る。それにより、自分の内側の感覚に一度潜り、その意識の中で目にした他者のダンスのイメージと自分の体に宿る動きへの潜在性を混ぜ合わせます。そしてこの身体感覚の世界の探求は、大胆に動いても、目を開けているパートナーやグループのメンバーが身を挺して外界から守ってくれる、まるでバウシュの『カフェ・ミュラー』のような贅沢な状況の中で行われたのでした。

(撮影:岡安いつ美)

 

● 動きを生み出す母体のようなもの まとめと映像活用の提言


 ダンスをつくる振付という行為は、一般に、身体運動の形や構造を問題とし、踊り手の内側の感覚、特に感情などの精神の動きを扱うことは少ないように思われます。長内さんのワークは、そうした身体の自他の未知の領域と外界の見知った世界を行き来する方向付けと具体的なタスクを与えてくれたように思います。自分の身体を内側から意識することが、他者の踊りの感受力を鍛え、他者のダンスからより多くをもらうことに通じる。ワークの途上でそう実感したことは、ダンスにとどまらぬ経験に、新しい作業領域を拓いたように思います。いずれにせよ、心と体の動きは単純な因果関係では捉えられないやり方で連携していて、ふだん「私」の都合に合わせてくれていると思っているそれらにも、思いもよらない回路が秘められています。アーティストの開発したダンスを見たり、彼らのインストラクションで踊ったりすることは、そのことをこの目この体でありありと識る機会のように、思われます。長内さんのワークは、そんな開発の最果てにあるコンテンポラリー・ダンスの中でも、最近まで手入れされてこなかった水路に水を流すようなものだと、たとえらられるのではないでしょうか。いずれにせよ、一週間後のアビーのクラスが待ちきれないものになったことは言うまでもありませんし、もっと言えば、ダンスを通して何をやりとりしているのかという問いは、川口隆夫さんが取り組まれているような、モダニズムのダンスの継承の鍵にもなるのではと思われました。

 

長内祐美(ベルギー/ブリュッセル)

YUMI OSANAI(Belgium/Brussels)

2010年フランスのアンジェ国立振付センターにてレジデンス、作品制作・発表。平成24年度文化庁新進芸術家派遣制度を受けハンガリーにて1年間Ferenc Fehérのもとで研修、ハンガリー国内にてツアーを行う。平成27年度ポーラ美術振興財団研修員。ベルギーのダンスカンパニーfieldworksにて研修、観客参加型の作品「Hidden Sense」を制作・発表。以降、活動拠点をベルギーに移し現在ダンサーとしてfieldworks, イラン人振付家Ehsan Hemat、ドイツ人アーティストLena Grossmannの作品等で活動中。また、中心となる身体表現への探求をしつつ、ビジュアルアーティスト、サウンドアーティストや女優等、多様な国籍・ジャンルのアーティストと共同制作を行う。現在、観客に「見せる」ための身体表現・ダンスの域を超えて、「何が私の、他者の感覚を変えることができるのか」という問いをもとに自身の活動も行なっている。

古後奈緒子(こご なおこ)

一九七二年大阪生まれ、大分育ち。舞踊史・舞踊理論研究、舞台芸術の批評、翻訳などを折々に。log-osaka時代にダンスウェブマガジンdance+を立ち上げ、京都国際ダンスワークショップフェスティバルでドキュメント・アクションに取り組む。2014年より大阪大学文学研究科 文化動態論専攻 アート・メディア論コース所属。大阪大学総合学術博物館「記憶の劇場(https://kiogeki.org)」活動⑦「ドキュメンテーション/アーカイヴ」事業担当。詳しくはコチラへ→https://3redoc2018.wixsite.com/kioku

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