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【暑い夏18】抒景 カティア ムストネン

2018年06月25日

〈B-3:カティア・ムストネン〉ワークショップレポート

 

ペットの犬や猫が本人のとどかないとこを掻いてやると、ときによっていっしょに同じリズムでぜんぜん関係ないとこを思いきし舐めだすけれど、あるいはそんな事態を招きかねないように、他人の二の腕を自分の二の腕を掻くように掻いたり、他人の目を自分の目をこするようにこすったりしてみたい欲求にかられた。

 

ここにきて他者に触れるにあたって、すでに合意が形成されてる手つきと、その都度双方の生活場面での生々しい行動との連続性についていくらかの加工をほどこされなければならないような個別に合意の形成を要する手つきの振れ幅を、今一度ひろげるような留保のアクションについて想う。

 

以前、国外で暮らしてたとき、同じ年式の洗濯機だと日本のよりとんでもなく震動がツヨかったり、ガスの炎の調節も日本のようにじわじわ加減できなかったり、静かにドアを閉めようとすると意に染まず大音声、さもなくばそれ相当の力の量のコントロールを要したり、一方、日本の障子やアルミサッシは、ちょっと力をかけると思ったより勢いづいてしまう確率が高かったりするような、習い性の体験は心のなかぼやけなかったり、なかなかからだに憶えるそういう齟齬を濾しとれず、身体感覚をいまこの時刻にいる国に揃えることができずにいた。

 

これまでも自分にとってカティアさんのワークショップの会場は、その空間にはたらいてる重力が日本じゃないように感じられ、身をおいていると、日本での実際の生活環境との繋がりをそこはかとなく断ち切られて感じることがあった。

 

今回少しそのナゾが解けた気がした。

 

言ってみれば、ここで漂ってくる齟齬は、日本のドアや10円玉とか硬貨の重みの平面においてしばしば連続性が途絶えてるからじゃないか。

 

動き以前の意識のそこそこの深みで生じる二者択一において、実際に身を浸してる環境に即して選ばれなかった方に転じていった場合の繊細さがたちこめてるからじゃないかなと思った。

 

“あ だんだんとからだが いろんなところのおしつけで いきおいえて はずみだした”

 

と、ここまできて、既成のグリッドに絡まった関係性を切り分けた在り方に執着してるのはぼくのほうだと思えはじめる。

 

参加者たちのお腹がゆるんで見えても、見ためよりお互い負荷がかかってないのは、この人たちが、普通ではありえないレベルでお腹で触り合ってるからのような気がしてきた。

 

最中、小っちゃい子連れの三人家族が退出する際、子どもが連れだされながら「おかあさん いた~い~!!!!」 泣きじゃくってた。

 

ぼくの想像以上に、彼女は、人体の些少なテクスチュアの変化でなく、どれほど篤実で不変な本体の境域にアドバンテージを持たせているか、ちょっと計り知れないなて気がした。

 

カティア・ムストネン(ドイツ / ベルリン)

KATJA MUSTONEN(Germany/Berlin)

フィンランド出身のダンサー、教育者、 ダンスメイカー。ベルリンを拠点に活動している。2004年オウトクンプ(フィンランド)にあるVocational Dance Schoolをダンサーとして卒業。フランクフルト音楽・舞台芸術大学(HfMDK)にて「コンテンポラリーダンス教育法」の修士号を取得。2008年以来、ダンスを学ぶ学生やプロ、ありとあらゆるムーヴメントの愛好家を対象に、コンテンポラリーダンスのテクニックやインプロヴィゼーション、コンタクトを国際的に教え続けている。 存在の有様やイメージを変容させ、具現化し、知識や感情、言語、雰囲気に伝導させる身体の能力に興味がある。近年写真やビデオ、テクストといったほかのメディアとのコラボレーションに関心を寄せており、さまざまな動きの実践や表現方法を用いた制作を行っている。

森 出(モリ イヅル)

ダンスミニマリスト

 

 

 

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