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山下残「ここに書いてある」

2009年04月1日

 2002年に初演した、観客に本を配り舞台上からの呼びかけに合わせてページをめくりながらダンスが進行する作品『そこに書いてある』を2008年に『It is written there』としてリメイクして3都市で公演した。本の中は振付家の創作ノートからの抜粋が多く、その他にもインタビュー記事や、絵が書いてあったり、シールが貼られていたり、穴が開いた仕掛けのあるページなどがある。言葉は全て日本語と英語表記で、ベルギー公演の時は舞台上での話し言葉のみフランス語とオランダ語の字幕を使った。リメイクした成果は初演以上にいろんな人からいろんな意見を聞けたことだ。そうした中で自分のダンス観みたいなものが少しずつ見えてきた。

090401_zan1 ダンサーが上を向いているとします。それから頁をめくると、手元の本の中には(空)という言葉があります。そうしたら多くのダンスファンには拒否反応があるみたいです。解釈をするのはやめてほしい、彼/彼女が見ているのは青とか雲とか宇宙とかいろいろあるでのではないか? でも、その青とか雲とか宇宙とかは(空)という言葉によって導かれる観客個別の想像力というものであると思います。舞台上にある身体が、普遍的な物語に回収されてしまわずに、観客個別の想像力をつくり上げることは、現代のダンスの課題だと思っていて、それのひとつの方法としてダンスに言葉を使うのが有効な手段なのではないかと思ってやっています。

 反対に、本の中で(空)という言葉を目にしてから、舞台上で空を見ている動きの人を観て何がおもしろいの? という意見もあります。そうしたら空を見ている人の動きは、何もなしにブラックボックスの劇場でそのままやったらおもしろいのかというと、僕はそう思わないです。音や光など何らかの素材が必要です。そういうものに頼らず体だけで表現しろという人は昔からよくいますが、ダンサーの立ち方ひとつで世界はいかようにも変化するという鑑賞の楽しみ方は、究極にはカリスマ的身体を求めるだけで、結局は世界を狭くするはずだと僕は思ってます。

 ダンサーが首を動かすなら首を動かしただけで、あとは余計なお世話、自由に鑑賞させろと言う人もいますが、狭い場所に大勢の人を同時に詰め込んで全員と同じ方向に視線を向けさせる舞台芸術の行為自体かなりのお世話だと思います。観客が求める自由についてもう少し突っ込んで考えてみると、ダンサーの動きを視覚でとらえた瞬間、そこから二転三転想像を連鎖させることがすでに備わっているひとりの観客にとって、さらに振付家の想像を付け加えられることはtoo muchだという意見もあります。確かにその通りですが、先程述べたように観客の個別性の問題にどう対応するかという問題があります。ある身体を限られた場所で大勢の人が観た場合、その時その場で、やっぱり何かしらの共有する物語に回収されていく可能性があると思うんです。ものすごく単純な例えで言えば、男と女と子どもの三人が舞台に立っていたら、それは家族とか。今はもうそんな時代ではないと言う人もいますが、ヨーロッパで作品を発表して、やっぱり日本人が舞台に立っているのを観て何かエキゾチックなもの、あるいはクールジャパン的な流行を期待する方向に流れていきそうな空気を僕は肌で感じました。それがもし作品の中に、身体とある言葉が配置されていれば、その身体からその言葉までの間に観客個別の想像空間が生まれますから、そこで作者の空間と観客個々人の空間の対峙が起こり、それは簡単には横に流れて全体にはなりません。クールジャパンとかそういったとこまで行きません。ある言葉とは、男と女と子ども三人が舞台に立っていたら、例えば別に(家族)という言葉でもいいわけです。私の家族とあなたの家族という個別の関係性が生まれますから。何もなければ観客全体の家族というものの普遍性が生まれてしまうということです。そうしたら今度は個別バラバラになった観客をどうやってまとめるかということですが、それは普遍的な物語とか流行に頼らなくても、何らかの仕掛けによって大丈夫になるわけです。例えば『It is written there』の場合は観客に本をめくってもらうようなことです。

 他にも(首を回す)というような言葉も本の中にあります。ダンサーが首を回しています。再びダンスファンは抵抗します。舞台上のダンサーがクルクル首を回していて、本の中に(首を回す)という言葉がある、そのままじゃないか?しかし示すものと示されるものが全くそのままということはありえないし、そのままだと批判する人は言葉と身体の二項対立の関係に自分が囚われていて、あるいは舞台上の言葉とは、舞台上に立つ人間の真実の内面であると見なして、より芸術に過剰さを求める姿勢に他ならないと思います。バラエティでタレントが話す言葉を同時テロップで流す手法がテレビ番組でありますが、あれの反動的な影響は大きいと思います。僕もテレビは好きなのでテレビ番組自体を批判するつもりはありませんが、文字テロップの使い方のみで考えると、あれを身体と言葉の関係の基準にしてしまうと大変なことになってしまうと思います。刺激が強すぎるように思います。しかし耳の不自由な人にとっては助けられるシステムで、それこそ個別性を考えるのなら有効な手段ですが、テレビというのは観客をバラバラにしていながら大多数の共感を得る必要がありますから、物語や流行を用い、個人が身体と言葉の刺激の強さに気がつかないまま画面の中の普遍性に引き込まれてしまう場合があるように思います。

 アイデアだと思われがちですが、僕にとっての身体と言葉の関係とは創作の手法です。言葉の制約とは水辺で遊ぶダンサーに船を与えることによってできる限り遠くまで旅をしてもらうようなことであり、言葉の選択とは一匹の魚を釣り上げることによって観客に海を意識してもらうようなことだと思っています。

 ダンスというのはそういうゴチャゴチャしたややこしい問題ではなくて、言葉にならない感動が大切なんだと思う人も多いと思いますが、僕も全くの同感です。 しかし演劇や小説にも言葉にならない感動が生まれることは多々あります。言葉にならない感動が言葉を使うことによって消えるのなら、世界に詩は存在しなく なります。詩の暴力性というのも時々論じられたりするのを目にする時がありますが、同じく舞台表現も先程述べたように暗い場所に人を押し込むような暴力性 を孕んでいるので、僕にとってダンスとは、子どもの頃から囲碁をやっていた影響もありますが、自由と制約の境界線をせめぎ合うゲームだと思って楽しんでやってます。

山下残(やました・ざん)
1970年大阪府生まれ。90年代中頃から振付家・演出家として自主公演を企画。言葉や揺れ動く舞台を持ち込んだ斬新なダンス作品を次々と発表。04年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。07年タイのライブアーツ・イン・バンコクで『せきをしてもひとり』、08年ベルギーのクンステンフェスティバルで『そこに書いてある』を上演。定期的にアトリエでの公演も開催している。

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