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【暑い夏13】C-1「人 間」

2013年05月31日

 昨年、本フェスティバルで受講したアリーヌ・ランドゥローのクラスでの、「コミュニティーの中でいかにものごとを受容し、またそこからそれぞれがどのように発することが出来るか」をリサーチする一連のワークは興味深かった。なので今年スカラーとして推薦を受けた際、CNDCの師として彼女が影響を受けたところが大きいというエマニュエル・ユイン(以下エマと表記)のクラスの受講を決めた。

撮影:下野優希
撮影:下野優希

 WS初日、まずエマが笠井叡氏とのデュオ作品『Spiel』のクリエーションのなかで実践していたという「相手になる」ということ—単に真似をするのでなく相手になろうとすること—を試みたいと説明され、実際のワークが始まった。まず誰かひとりが短い即興を踊り、他の人はそれを見て、そのあと動きを再現する。即興をする人は、長さや動きに関して具体的な指示はされないまま、まだよく知らない来歴もさまざまな二十数人のダンサーに提供する動きをその場で選ばなければならない。かたちをなぞるだけが目的ではないことはわかったが、見る側にとって、即興を一度見ただけでは動きの端々まで追いきれず、大まかな流れだけでもと思っても、記憶が途切れてしまう。目の前で踊られるものをほとんど引き寄せられないまま、再現しようとするのはとてつもなくもどかしい。さらに一度見て再現したら繰り返さず、次はまた他の人が即興をし、またそれを見て再現…と続いてゆく。これでは延々相手に届かないのではないか、という手応えのなさがつのっていった。

 数人分の即興を見て、再現されることを前提に選択されているはずの動きであるけれど、どうもそれが受け取りにくいものに感じられた。その動きから何を手渡そうとしているのか、何によって目の前の人の体は動いているのか、なかなか汲み取れない。それよりも右だったか左だったか、足が先かそれとも目線が先に動いたか、動きの段取りに終始し、記憶に引っかかった曖昧なものをパッチワーク状につないでその場を凌ぐ状態になってしまう。

 わからないということが、それを知りたいという動機につながらず、体と体の間に隔たる距離ばかりが感じられた。言葉が通じない状況に似ているが、それ以前に、話されている言葉自体が、何かを伝えようとしているというより、モノローグのように思われた。それはこの受け取りにくさの大きな理由でもあった。しかし、だからといって、誰でも簡単に再現できる手旗信号のような動きをすればいいということでもない。とすれば、私にとって「これはダンスである」と思っているもののなかから、他者にとっても共有可能なものとは何か、共通したテクニック、身体言語を持ってなければ理解できないという質のものでなく、そういうものはあるだろうかと考えはじめる。「これはダンスである」と思っている凝り固まりがふるいにかかっていく。

 あとになってから、「動けない」というのが最も正直な体感であったのに、何か動かなければならないと思って、動いてしまっていたことが何より違和感だったのだと気付く。動かないという選択をそのときに出来なかった。それは相手から遠ざかり自分も煙に巻く身振りをしていた、ということになる。相手になろうとすることは、相手を体に引き寄せたいという欲求が生まれたときにしか、本当のところ不可能ではないかという思いもよぎる。「相手になる」ということに納得のいく地点に達しないのに、相手になろうとする、その誠実さをどこに持っているべきか・・・。このように初日はエマの言う「相手になる」ということの意図するところがつかめないまま終わり、残りの8日どうなることかとやや不安であった。

 2日目、全体の流れは大体同じだが、即興を見る、再現することから少し発展し、再現するものは受け手にとって動きのなかで重要だと思った部分でよく、さらに動きを同じようにやるだけでなく、受け手によって解釈されたものでよいということになった。初日の消化不良がそのままの私にとって、その展開は少し性急に感じられた。相手の動きを何度も繰り返し、体に落とし込んだのちに崩す、ずらす、変調させる、といったことが可能になるのではないか。今の段階では受けたものを変形させるべきではないし、むしろまだ触りようがない。さらに相手の動きを安易に所有してしまうことへの疑念があった。

 こんなふうに今回、彼女のワークを最初からすんなり受け入れることができず、数日は悶々と過ごしていた。彼女がこの方法から、どのような関係性を導きだしたいと思っているのかを知りたい気持ちで通っていたが、WSが後半に差し掛かり、回を重ねる毎に少しずつ自分なりにこのワークについて考える余地を見いだしていった。

 やっていることはほとんど変わらず、全員対一人から、一対一のペアへと切り替えた。まずひとりはプレイヤーと呼ばれ、短い即興をする。もうひとりはそれを見たあとプレイバックをする。一度やって役割を交代する。このときの即興の動きはかなり短いもの、数十秒でワンアクションくらいのものにするよう、いちばん伝えたいものに的を絞るよう指示があった。さらにそのあと二人同時に即興的に動きを共有し、相手と動きを同期させたり、意図的に少し遅らせたりした。意識は途切れさせずに相手から視線を外したり、動きとしてソロになったり、端と端まで離れてみたりしながら展開させて踊る。空間には数組の別のペアもいてその環境で動いていている。最小単位のふたりであった関係性が全体に対して影響を与えるものであることにも徐々に意識を広げていく。このときクラスの人数を半分に分けて、人が動いているのを見る時間があったことがとてもよかった。  見ていてはっきりとわかるのは、ふたりの関わりが希薄だと全体としても響かないということ。動きが大きくなるにしたがい誰が誰とペアであるかわからなくなるところがあった。動きが同期しているか否か、ふたりの距離の遠近に関わらず、コミュニケーションの糸が常に維持されていて、それが別の糸に交差する瞬間に、全体の充実につながる糸口があらわれる。誰かの演出意図ではなく、個々の関わりとそこからの広がりによって時間を展開させる可能性の模索は、興味深く感じるところだった。

 そのような群舞の状態を成立させるには、おそらくそれぞれが発することと受けることの中で常に場において必要なものを選びとり、その一挙手一投足の即興を厳密になさなければならないのだろうと感じる。厳密というと息苦しく聞こえるかも知れないが、厳密に即興をしようと言い聞かせて踊ることではない。各々の知覚と瞬時に必要なものを選択する理性が最も自由に働くことができ、またそれを相互に発し受け取ることができる場に生まれる状態をこそ厳密である、と呼びたい。

 9日間という期間にそれを深く追求することは叶わなかったが、最終2日間はペアを変えずにワークを継続したこともあり、新たな出会いのなかでも少し関わりを深めることが出来たように思う。自分にとっての相手は、当然のことであるけれど、共有できるものとわからないものを併せ持っている。お互いにわからないけれど、それもそのままになんとか交信しようとすること、可能性に対してひらかれている状態を維持することがもっとも重要であると感じた。  エマが笠井氏と継続していたクリエーションの意図とは少し違う地点に行き着いたようだったが、困惑しながらも気付きを得ることのできる日々となった。

C-1  エマニュエル・ユイン(フランス)  4/27(土)-5/6(祝月)   “Eating the other one / 他者を取り込む”このクラスは、エマニュエルと日本を代表する舞踏家笠井叡氏によるデュエット作品『SPIEL』(ドイツ語で「ゲーム」を意味する)で展開された観察のためのツールに基づいて進められます。「イミテーション」や「プレイバック」など様々な他者と出会うためのツールが、2人の空間・身体ではなく、第3 の身体・空間、いわば「間」を生み出していきます。この私のものでも他者のものでもない身体/空間から、いかなる「間」が立ち現れてくるかをともに探求しましょう。作品創作へとつながる観察や発見、ディスカッションに満ちたリサーチ・クラスです。


prof_emmanuelleエマニュエル・ユイン (フランス/アンジェ)EMMANUELLE HUYNH 元フランス・アンジェ国立振付センター(CNDC)芸術監督。造形作家や音楽家など異分野のアーティストとの共同作業を開始し継続的に行うなど、鋭い批評的まなざしでダンスの再構築を進める彼女は、ドミニク・バグエ、トリシャ・ブラウンなど多くの著名な振付家の下で踊る。’01 年フランス政府派遣アーティストとしてヴィラ九条山に滞在。『AVida Enorme』(’08) 、『CRIBLES』(’10)を本フェスティバルでも上演。笠井叡とのデュエット『SPIEL』(’11)を発表するなど、日本との交流も深い。待望の再来日。(KIDFホームページより)

 今回は単発で3日間だけだったが、ノアム・カルメリのクラスも受講し、最終日のジャムセッションに参加した。

 ジャムセッションの場では、知り合って話して親しくなって、という経過なしにその場ではじめて見た人にもいきなり触れてしまうし、触られる。その中でひとりでは生まれない動きやかたちの発見はあるのだが、それよりも日常生活の上でははっきりと引かれている他者との境界を思うより軽々と踏み越えさせてしまう踊る場の力を改めて感じた。振り返ると私自身踊ることを知り、そういう作用によってようやく人と出会うことができたと思うところもある。しかし、この「触れる」ということには、どこか発散させられてしまうものもあった。コンタクトをする条件としての積極性に意識が牽引され、積極の坩堝のなかに引き込まれる。人のなかに解放される異様な高揚感あった。自分と相手の重さやかたちをやりとりする関わりのなかで動きが発生すること、どちらも相手を信頼して体をまかせ受け止めなければならないこと、コンタクトインプロヴィゼーションには方法として、直接的に人をひらかせるかなりの力を感じる。ただ、相手との関係において選び取れるものが限られていて、即興ではあるけれどロジカルな展開に回収されがちなところがあるように思う。コンタクトをしているとき、相互の関わりで支え支えられていることが動きの原動となるので、ふとアクティングエリアでひとりになったときに、ひとりで動くことが難しくなる。場がどうなっているか、その状況から動くことができるかと見渡してみても、其所ここで発生しているパートナー同士の密度のなかに取り残され、何をしてもこの場においてそれほど響かないという体感が返ってくる。コンタクトをしている相手へ意識のほとんどが注がれているため、そうなるのは当然であるけれど、自分のありかたを誰かに求めてしまうやや依存的な意識に動かされていることを感じた。

 他者との関係について、距離について考える前に動き触れてみる。肌が接することで気付くこと、身を投げてみて知ることもあるけれど、コンタクトをする自分に対して、その方法自体の説得力や牽引力を感じながらもどこか乗り切れず、肌にフィットしていないような感覚があることを認めざるをえなかった。これは単に慣れの問題ではなく、もっと根の深いこと、育った国や環境なども関わっているように思う。きっとそういったことも突破して、さらに視野を広げる方もあるだろうけれど、私にはどうも、違和感があるということを起点として触れるということについて考えることが自分としては正直であると感じた。  しかし違和感に踏みとどまることと、それを乗り超えようとする必要も時にはある。今回何より課題として残ったのは、英語でのコミュニケーションに必要以上に萎縮してしまうことだった。克服すべしとエクスチェンジに応募したが、積極的になりたい部分と実際の行動をほとんど結びつけられなかったことがひとつ反省として残っている。

D-2 ノアム・カルメリ(イスラエル)  4/27(土)-5/6(祝月)   テーマ:Riding the waves–波に乗る。 建築と合気道とコンタクトを融合させたノアムによるクラス。『ムーブメントの生み出すウェーブとは何だろう?カラダの内側でどういう風にしてそれを感じとるのか?世界にそれはどんな風に現れ、そしてそれを感じ取る能力をいかに発展させることができるだろうか?独り/パートナーと行う、様々なエクササイズを通じて、ウェーブを追いかけること、そしてそれを身体の内側で感じること、踊りながらいかにウェーブをキャッチし乗りこなすかを学びます。そしてそれはより自由で、より正確でより愉しいものになるのです。』(ノアム・カルメリ)


prof_noamノアム・カルメリ (イスラエル/テルアビブ)NOAM CARMELI コンタクト・インプロヴァイザー、武術家(合気道)、ボディーワーカー、そして建築家としても活動している。イスラエルの即興グループOktet の創設メンバーで、北アイルランドEcho Echodance company でも踊る他、ヨーロッパでの活動も精力的に行っている。現在イスラエルのCI アソシエーションの総監督、及びイスラエルコンタクト・インプロヴィゼーションフェスティバルのオーガナイザーを務める。CI、合気道、GAGA を学び続けるなか、ムーブメントの探求と融合、そしてコミュニティーの形成に積極的に臨んでいる。(KIDFホームページより)

増田美佳(ますだ・みか) 1983年京都生まれ。高校では服飾を専攻。京都造形芸術大学 映像舞台芸術学科舞台芸術コース卒。近年の出演作『庭みたいなもの』振付/演出 山下残 『天使論』演出/相模友士郎など。「インプロセッションの會」を継続的におこなっている。

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