interview

相模友士郎×西岡樹里 アフター・ダイアローグ 『先制のイメージ』から『天使論』へ

2013年02月28日

舞台芸術において、いわゆるダイアローグ・ピースにとどまらぬ「対話」のしかけを含む作品群が注目されています。第四の壁をさまざまなやり方で揺るがすそういった作品には、目撃者の間にも会話をひらいてゆくものが少なくありません。それらの中でおそらく昨年最も語られた作品の一つ『先制のイメージ』と、同じ方法論でつくられ、横浜、福井、京都と版を重ねてきた『天使論』。二作品について、構成・演出を手がけた相模友士郎さんと、ご自身もダンサー・振付家であり『先制のイメージ』のアクティブ目撃者となった西岡樹里さんにアフター・ダイアローグをお願いしました。

sugoidance2013_chirashi_small「すごいダンスin府庁2013」
『天使論』構成・演出:相模友士郎
出演:増田美佳
演出助手:芦高郁子

『ファミリー・マート』と同時上演
演出・振付:倉田翠
出演:倉田翠、今村 達紀、竹内 英明、田辺 泰信、松尾 恵美、 玄 済一
日時:2013年3月3日(日) 13時〜/16時30分〜
場所:京都府庁旧本館正庁
料金:1,500円
予約、お問い合わせsugoidance(a)gmail.com
※ (a)をアットマークに変換ください
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■ 体で起こっていることをまなざす


西岡:『先制のイメージ』で興味を持ったのは、見ている側の見方がコントロールされるところです。それによって見ているものの状況が更新されてゆきました。

 そこで疑問に思ったのは、ダンスを作るときにどこまで作り手がコントロールして、どこから観客に委ねるかということです。相模さんの作品では、あえて曖昧さを持たせて観客に見せる部分はあるんでしょうか。

相模:『先制のイメージ』ではむしろ、「何をやっているのかわからない」とお客さんが思うようなことはなくそうと心がけていました。作品づくりにあたり考えていたことの一つは、自分が舞台上にある体をこう扱おうとしている、こういう風に見ているという、その目をそのままお客さんに渡せたら、体そのものをフラットに面白がってもらえることができるのではということです。

  今回再演する『天使論』のチラシのテキストにも書いたのですが、僕は演出をしている時、目の前で動いている体を見ていることしかできない存在でしか本当になくて、いいとか悪いとかなしに、体について面白がっている気がします。その部分が、作中の「ダンサーにこういう風にしていって欲しい」っていう僕の指示に反映される。同時に当然、お客さんは「こういうことを前提としてこの人には動いてもらいますよ」とわかることになる。なのでパフォーマーと一対一で演出をつけている稽古中も、常にお客さんたちが隣に並んでいてその目を頼りに見ているような感覚でいました。すると、指示の言葉の運び方も、「これ、抽象的すぎるからお客さん離れるだろうな」とか、「じゃあ具体的にこれ」と、曖昧さを一切なくしていくよう心がける。

 ところで、見ていて何かわからないところって、ありました?

西岡:その反対で、よくわからないことがなかったことに少し違和感があったくらい。見終わった後も、50分の作品をたどって人に説明できたくらいに覚えていたんですよ。それは、作中で説明される、これから起こることを見逃さないでいたいという気持ちがあったからかも。また、初めの「コカコーラ飲んだことのない人はいますか?」っていう質問や、缶を動かし始めるところの小っちゃいボケなど、突っ込みたくなる箇所もあり、それは観客が追い付くのを待ってくれるようでもあって、無理せずついていきました。こういう楽しみ方があるんだ、と。

 具体的にはどんな風に稽古していったんでしょうか? 私が見たのは『先制のイメージ』でしたが、『天使論』との違いはありますか?

相模:『先制のイメージ』と『天使論』の創作は同時期に並行していて、同じ関心をめぐっていました。ほぼ初対面の野田まどかさんとの『先制のイメージ』、これまで何度も一緒に作業している増田美佳さんとの『天使論』では、対照的な稽古になりましたけれど。その関心というのは、舞台上で、あるいは観客の前で身体をもって何かを行う、その自発性、能動性を徹底して疑い、『能動的受動体』とでも言うべき身体をどのように工作してゆけるか、というものでした。

 『先制のイメージ』の稽古では、具体的には今作でも扱った「目の前に自分の体のイメージがあると設定し、そのイメージを人形のように動かす。」といった指示で、動く動機をひとまず自分の体の内側ではなく、外側に設定して動くことを野田さんに延々と繰り返してもらいました。そうすることで、恐らくは踊るダンサーの体の内部で、意識の中で、往復しているであろう動くこと/動かされること/動かすことを分離させて仕切ってゆく。

 対して『天使論』のほうは、ひたすら僕の中にふいに現れてきた「天使」のイメージとは一体なんなのかを掴むための稽古でした。僕自身の直感と無意識を正確に舞台、あるいはダンスというものに落とし込むことが出来るのかを試した、かなり先の見えないカオティックなものでした。例えば、増田さんに即興で踊ってもらい、それを見てここは良い、ここは良くないとひとまず解釈を抜きに直感で判断する。次にその判断は何を根拠に成されているのか、あるいはその時に踊っていた増田さんの体感とそれは一致しているのかを吟味する。これは一例ですが、ひとまず「直感」という根拠のない何かを指針にして、それでもなお「作品」という形態に落とし込むことは可能か。そして、それは観客という他者と共有可能なのか。ということを手探りに模索していました。

 二つの正反対の稽古場を行き来しながら、最終的にはそれぞれの作業が統合された形で『先制のイメージ』『天使論』ができたという感じです。タイトルが違うだけ、という(笑)。

『先制のイメージ』 提供:「We dance 京都2012」実行委員会
『先制のイメージ』 提供:「We dance 京都2012」実行委員会



■ まなざしを遮る/開けさせる言葉やイメージ


西岡:『先制のイメージ』の稽古方法を聞いていて、舞踏の動きの始まり方を思い出しました。イメージに動かされる、また受動的な身体という方法を使うという点で。それだけで舞踏とつなげるのは安易かもしれないですが、何か相模さんの考えとつながるところはありますか?

相模: 言葉やイメージを、身体を潤色し、隠すものでなく、そこにある身体を暴くものとして用いたいという点では、舞踏にもつながってくるのかも。そもそも僕がダンスに興味を持ったのは細江英公の『鎌鼬』を見たのがきっかけだったし、三上賀代さんが書かれた『器としての身体』を先日読んでいて「右手の甲に一匹の虫がいて、二匹、三匹と増え、それが五千匹になって」・・・と体に対して言葉でイメージ与えてゆくんですが、もちろんそれは、動きによって虫を見せるためじゃない。むしろ自発的に動こうとする体を妨害するようなイメージだと思うし、言葉のイメージと体がそれぞれ裏切りあうようなプロセスはまさに『能動的受動体』へのアプローチだと思います。そういう自覚的な言葉やイメージの使い方は、たまたま僕が見にしてきたダンス公演ではあまり・・・。

 例えば、コンテンポラリーダンス公演のパンフレットには、大抵すごく抽象的な言葉が書かれていますよね。書いた自分しか共感できないような。で、そういうことを伝えたいんだかなんだかわからないけど、観客の感想も何かしらこういうことを伝えたかったんですよねっていう主観的な感想に終始してしまう。ダンサーとしての踊ることに対する主観的な体感の言葉が観る側にとっては邪魔だな、とすら思う事があります。

西岡:それが何の為に使われるのか、という事もありますが、その言葉は作品を舞台上だけのものにする可能性もありますね。でも、ダンサーの作業は振付などとは異なっていて、その役割の言葉が観客に伝わることは少ないんじゃないかなと思います。私が観客との橋がけのために言葉を使う時は、言葉にすることで消えてしまうことがあることに注意しながら、どのくらい伝えて、作品に近よってきてもらうか、もしくはそうしないかっていうことはよく考えます。「こういことがやりたくて作りました」と伝えすぎると、実際目の前の作品の中で起きてることが見えなくなってしまうこともある。一方で、お客さんの側から「わからんかった」と、伝えなかった、伝わらなかったことをネガティブに受けとめられる場面もありました。そういうところから観客が想像できるような余白を残しておくといったことは、考えたことがありますか。

相模:ダンスによって何かを伝達するという前提そのものに、僕は疑問があって。イメージを伝達しようとすることがあるのはよく理解できるんだけど、体にそれをさせようとすると、イメージは人の目を体から遠ざけてゆきますよね。つまり見えていないものを見よう、見せようと必死になるあまり、そこにある具体的に見えて在る体を掴み損ねるというか。言葉も同じことで、ダンスをつくる人も見る人も、言葉で伝えられるような意味に頼りすぎているんじゃないのか。必要なのは、言葉の意味に回収されがちな“解釈”とは違うものに、どう開けさせていくかでは? そのために考え得ることの一つが、じゃあダンス自体が持っている言語って何だろうってことだろうし、そこを隠しているのは何かっていうことじゃないか。

 これは僕が映画とか映像から舞台に来たからなのかも知れませんが、「ダンスってこういう見方だよね」っていう、よくわからない制度にのっかって見ることには心地よさを感じないんです。すごくざっくりした例えですが、コンテンポラリーダンスの公演に行くと、ダンサーがふわぁーっと出てきておもむろに動き始めますよね。すでにそこで僕は「待て、なぜそうなるのか前提を教えてくれ」ってなるんです(笑)。そうなるともう全然了解できないし、主観に頼るしかなくなっちゃう。自分の作品では、演劇でもダンスでもいいのですが、そこの時間にどういう風にお客さんの目線を組み込んでゆくかを考えたい。そのためには「前提」が必要だし、その時に「対話」ということも考えるわけです。


『天使論』@KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ ©Yusuke Nakazawa
『天使論』@KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ ©Yusuke Nakazawa


■ ダイアローグのありかた


相模:『先制のイメージ』では、先に説明したような体の扱いを進めつつ、モノローグというものをひとまず否定することで、対話としてのダンスを考えました。

 モノローグというのは、作り手が予め持っているイメージを観客に伝えるっていうことだったり、もっと悪く言えば「私を見て」っていうことだったり。そういったモノローグは、豊かでありうる他者との交渉を拒絶して、理解できるかできないかといった貧しい受けとめ方を一方的に観客に押しつける。それは双方の主観しか前景化されないし、それでも他者となにかしらを共有できた、と思う幻想は先にも言った「よくわからない制度」というか、「ダンスを見る」と言った時に作り手と観客との間で無意識的につくられてしまっているその制度に僕も含め、作り手側が無自覚なせいだと思います。もうちょっとそこにある体ってものと、それを見ている者のまなざしっていうものが、結ばれたり結ばれなかったりっていうことができないか。そこで双方が揺さぶりみたいなものを体験したり、体を見るまなざしっていうのが変化してゆく過程を、どういう風に形式化できるかなと、そういうことを考えていたんです。

西岡:そうやって目が変わってきて、最後のシーンで音楽が流れてダンサーが自由に動き出した時は、私にはやっていたことの理由が全部消えて、その人が踊っているように見えました。その時にこちらも想像を始める-私は始めたんですけれど-、そのあたりはどう意図されていたのでしょうか。

相模:いま西岡さんが言ってくれたような、見ている個々人の体験になってゆくようなことは先の質問でもあった“余白”にしている部分です。『先制のイメージ』や『天使論』ではとにかくあらゆる前提を明示することで観客の眼を誘導していきますが、それらの前提はやはり最終的には観客のまなざしと舞台上にいるダンサーの創造性によって突き崩されるべきだとも思っているし、そこから先を誘導しようとは思わない。かといってご自由に、という訳でもないんですが・・・。

 ちなみに、最後のところはダンスに見えたんだろうか。

西岡:私自身は最初からダンスだと思って見ていました。が、最後のシーン、音楽が入ったところで、ダンスとして見せようとしているのかなと。でも、相模さんは観客の見方をコントロールしているんだろうと思っていたので、指示の中で「ダンス」につながる言葉が出てきても、その裏というか、違うことに誘導するために使っているんじゃないかと疑ったり(笑)。実際どうなんですか。

相模:それはその通りで、僕が言う指示の中には常に相反する意図が同時にあると思います。「ダンスに見えますか」って質問もですが、そこの言葉の遣い方は微妙で、例えば中盤、あるイメージに体が奉仕しているじゃないかという段階から、そこから「自立してください」と言うんですけれど、見る人にとっては、イメージから自由になっていくことがダンスだと捉えられかねないなとも思っていて。「ダンス=自由」みたいな受け取り方じゃなく、“自立”と“自律”が共存するような緊張状態、そこで作り出さなきゃならないイメージと、それと戯れることと、それを振り切ることの振れ幅を、見る人にももうちょっとわかりやすくしようと思っています。『天使論』は横浜、福井とそのつど改訂しながら上演を行ってきましたが、次の京都での『天使論』はそのあたりを具体的に扱うつもりです。(つづく)


(2013年2月13日@大阪)




相模友士郎(さがみ・ゆうじろう)
sagami_kakudai_small1982年福井生まれ。演出家。2000年より映画製作を始め、国内外で作品を発表。2004年より舞台作品の創作を始め、2009年には伊丹市の70歳以上の地域住民との共同作業による舞台『DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー』を発表。同作品は翌2010年、フェスティバル/トーキョー10に招聘され再演された。その他の作品に『中平卓馬/見続ける涯に火が・・・』(2011年) 『先制のイメージ』 『天使論』(2012年)など。また、デザイナーとして様々な公演の宣伝美術を手がけ、『プロセス−太田省吾演劇論集—』『舞台芸術』『土方巽−言葉と身体をめぐって—』など本の装丁も行っている。 http://www.sagami-endo.com


西岡樹里(にしおか・じゅり)
写真アップ上向き_small兵庫県在住。ダンサー・振付家。2010年神戸女学院大学舞踊専攻、卒業。その後、砂連尾理「劇団ティクバ+循環プロジェクト」(神戸・独・京都),Stephen Mosblech〈ASBESTOS PROJECT〉(神戸)、村越直子「nothing-weight-light」(加)などにダンサーとして参加し国内外で活動。また、音楽家との共同制作作品「harmony」[2012年]、モノと人の関係を見つめ直す舞台作品「C/O/S/M/O/S」(DANCE BOX『国内ダンス留学@神戸ショーイング』)[2013年]を振付。その他、企画・プロデュース公演「Tool」[2012年]を行い、音楽・映像・ダンスなど様々な層のアート、観客が交わる場を神戸にて開催。同年より福祉専攻科にてダンス講師を務める。
国内ダンス留学@神戸【1期生 最終成果上演】2013年3月9日@ArtTheater dB Kobe


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